【ルカ1:71】
この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
この救いは敵からの救いです
「この救いは、私たちの敵からの救い、私たちを憎むすべての者の手からの救いである」と聖書は言います。
これは、喜ばしい知らせです。しかし、当時のイスラエルの人々と私たちでは少し認識が異なります。
これは、復活のイエス様が昇天されるときに使徒たちが尋ねたことです。十字架と復活を見た使徒たちでさえ、このように期待していたのです。
しかし、私たちは知っています。イエス様は、地上に生きておられたとき、ローマの圧政からイスラエルを救い出されませんでした。むしろローマ兵の手で、十字架に架けられれたのです。
よみがえられた後、40日間弟子たちと一緒におられた時も、革命を起こしたりされませんでした。ただ「聖霊を待て」と言われただけです。聖霊によってイエス様の証人となると言われただけです。
ザカリヤが預言した「敵からの救い」は、ローマからの解放ではありませんでした。それは、主イエスが地上で生きている間には成し遂げられなかったことです。(成すべきことではなかったので)
イエス様は、囚われ人に解放を告げるために来られました。そして、実際に解放してくださったのです。
イエス様は、奴隷であった私たちを解放してくださったのです。私たちは、もう死の恐怖につながれてはいません。イエス様の十字架の死により敵である悪魔は打ち砕かれたのです。
イスラエルはエジプトから解放されました
イスラエルは、エジプトで過酷な生活をしていました。
主は、イスラエルのうめき、泣き叫びを聞いてくださいました。そして、イスラエルをエジプトから脱出させてくださったのです。
子羊の血を家々の門柱とかもいに塗りなさいと主は命じられました。その血を見てわざわいを過ぎ越すと言われました。しかし、血が塗られていないエジプトの地には、主の御手が下ります。
なぜエジプトの地は打たれたのでしょう?
それは、もちろんイスラエルを解放しなかったからです。
しかし、本当の理由があります。主は言われました。
「エジプトのすべての神々にさばきを下す」
主がエジプトを容赦なくコテンパンに打たれた理由はこれなのです。
これは裁きなのです。神ではない偶像の神々への裁きです。
エジプトは、ファラオを筆頭に偶像の神々と呼ばれるものに仕えていました。偶像の神など本当には存在しませんから、その背後にいるのは、いつでも悪しき者です。
パウロが言っている通り、世の偶像の背後には悪霊がいるのです。そして、この悪しき者がイスラエルを虜にしている張本人なのです。
覚えてください。これは霊的戦いなのです。サタンは、エジプト王の背後にいて、イスラエルを弱らせて奴隷のまま捕らえておきたかったのです。
そして、サタンは、私たちのことも「一生涯、奴隷」として捕えておこうとするのです。私たちは、イエス様によって解放されたのです。
決して再び、奴隷のくびきを負ってはなりません。
主は、イスラエルがエジプトのくびきを負い続けることをお許しにはなりませんでした。
10の災いをもって、強大な御力を現わされました。主は、イスラエルをエジプトから救い出されたのです。イスラエルは、くびきから解放されました。
救いの目的とは何か
イスラエル人たちは思ったのです。これで重労働かから苦労から解放されると。
それはもちろんその通りです。しかし、それは救いの目的ではありません。誤解を恐れずに言うならば、それは救いの「結果」であり「副産物」であるのです。
そして、その救いの「結果」を「目的」だと思い込んだイスラエルは、荒野を40年さまようことになったのです。
私たちはどうでしょう?
主は私たちを何から救ってくださったのでしょう?
私たちの答えは、イスラエルと同じではありませんか?
主は、私たちの重荷を取り去り、私たちを癒してくださいます。しかし、それは、繰り返しますが、救いの「結果」でしかないのです。
イスラエルの重労働は消え失せました。それは、なぜでしょう?
それは、エジプトから解放されたからです。
ファラオの支配から脱出したからです。
エジプトの支配から唯一まことの神の支配に移ったからです。
救いとはまさしくこのことです。支配からの脱出、そして支配権の移管です。
闇から光に
サタンの支配から神に立ち返り
罪の赦しを得て
相続にあずかる
これが救いの目的です。
救いとは、立ち位置が変わることです。暗闇でなく光の子になることです。サタンの支配から神の統治に入ることです。そして、罪の赦しを得て、永遠のいのちを持つことです。
私たちは救われて、神様の所有とされたのです。主のものは、主が守られます。私たちは、今、罪を赦されて永遠のいのちを持っています。天の御国に行くまで、主のものとして、主に従って生きるのです。
目的を理解して歩む
イスラエルは、エジプトの支配を出て、神の民となりました。ファラオの支配から神の所有の民とされたのです。そして、カナンの地を受け継ぐのです。
しかし、彼らは解放の目的を理解していませんでした。だから、荒野での生活に不平不満を爆発させたのです。
主はイスラエルに天からのマナを与えてくださいました。しかし彼らはそれで満足しませんでした。カナンの地に巨人がいると知ればひるみます。自分たちの思うようにいかなければ、モーセとアロンに噛みつきます。
重労働から解放されて喜んでいたのも束の間です。
イエス様が種蒔きのたとえで言われた岩地に蒔かれた種のようです。自分の中に根がないので、しばらく続くだけで御言葉のために困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまうのです。
自分の中の根を伸ばすためには、私たちが救われた目的を本当に理解することです。
イエス様が救って下さった目的をしっかりと認識することです。
天の御国にたどり着くまでの人生は、まさに荒野を旅したイスラエルのようです。
私たちは、自分がどこから救われたのかを決して忘れてはなりません。
誰の所有になったのかを覚えていなくてはなりません。
そして、目的地がどこであるのかを見失ってはならないのです。
目的を理解せず天国までの道を歩んではなりません。それこそサタンの思う壺です。
イスラエルが、荒野で不平不満に満ちたように、私たちは人生をつぶやきながら過ごすことになるでしょう。
サタンは、私たちが解放されたことや、私たちが永遠のいのちを持っていることを隠したがるのです。まだ、自分の手の内にあるかのように支配しようとしてくるのです。
実際には、荒野には奇跡が満ち溢れていたのです。主は、イスラエルの真ん中におられました。幕屋には主の臨在があったのです。イスラエルは、常に、主とともにあったのです。
天からマナが降ってきます。岩から水があふれます。戦いはありますが、必ず勝利します。
私たちの人生も同じです。主は、私のうちにおられます。常にともに歩まれます。主とともに生きる人生には奇跡があふれます。
覚えてください。
主のものは、主が守られます。
荒野で与えられる「物」と「事」に目を留めないでください。
また、与えられない「物」と「事」に執着しないでください。
主は、すべてをご存じです。
誰が主であるのか
私たちは、敵から救われたのです。それは、つまりサタンの支配からの救いです。
私たちは、今サタンの支配下にはいません。自分で自分を治めてもいません。つまり、肉に従っていません。私たちは主イエスに従います。神の支配の下にあるのです。
イスラエルがこのことをはっきりと認識していたらと思います。
エジプトは強制労働させるので支配されてる感をひしひしと感じることができます。けれど聖霊様を強制されません。だから、私たちはなんとなく自分勝手に生きて良いと思っているのです。
主の与えてくださった「物」と「事」に目をとめてしまって、それが救いの証しのように考えてしまうのです。
だから、目の前にあった祝福に見えるものを失うとつまずいてしまうのです。
いつも大切なことは「誰が主なのか」ということです。
サタンの支配から脱出して、「自分らしく」「自分のために生きている」ので、自分の十字架を負ってついてきなさいと言われるとつまずくのです。
けれど、もう一度言います。
「誰が主なのか」
私は、誰の支配の下いるのか。
主が、私達を敵の手から救い出してくださったのは、恐れなく主に仕えるようになるためです。
これこそイエス様のご降誕を覚える本当の意味です。
私たちは、敵の手から救われました。それは、サタンの支配からの解放です。そして、それは「闇から光へ」「神の支配へ移された」ということです。
私たちは、救われました。
私たちは、主の民として歩みます。
まっすぐに前を見て歩みます。
天の御国を目指して歩みます。
永遠のいのちを握りしめて。
二度と奴隷のくびきは負いません。