ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
できることは一つだけ、やるべきことも一つだけです
ビリー・グラハム師が語った有名なたとえ話があります。
カエルたちが集まって会議をしていました。そのとき鶴が一羽飛び立ちました。カエルたちは会議をやめて、うらやましそうに鶴を見上げました。
「ああ、俺たちは、いつになったら、あの鶴のように飛ぶことができるだろうか」次の日、そのうちの一匹が、鶴を訪ねて聞きました。
「私もあなたみたいに飛んでみたいのです。飛ぶ方法はないでしょうかね」そして名案を思い付きました。長めの棒の両端を互いにくわえていれば飛べるのではないか、ということでした。
鶴も「いいね、やってみよう」と賛成しました。
カエルが棒切れの片端をくわえ、鶴がもう片端をくわえ、格好よく飛び立ちました。カエルは、夢か幻かわからないほどの喜びに包まれました。下にいた仲間のカエルたちはそれを見て、「おお、すばらしい。カエルでもあんなふうに飛べるのか」と驚きました。
そこで、飛んでいるカエルに叫びました。
「おーい、誰がそんなすごい考えを思いついたんだ?」すると飛んでいたカエルは、胸を張って得意げに答えました。
「俺だよ!」パワー・ローマ書 ジョン・ビョンウク著 小牧者出版
さて、得意気に答えたカエルの運命は…
想像がつきますね。
棒を口から離した瞬間、カエルは真っ逆さまに落ちて行きました。つまり、カエルの命はそこで尽きたということです。
このたとえ話は、聖徒の人生にとって「大切なこと」を教えてくれます。
自我が身を滅ぼすということ。
私たちには「飛ぶ力がない」ということ。
しかし、逆に「しがみついてさえいれば」ずっと飛び続けることができるということも教えてくれます。
「飛び続けたい」ならくわえた棒を離さないことです。
「実を結びたい」のならイエス様に留まり続けることです。
すべての力を「主イエスにとどまること」に注ぐなら、私たちは「多くの実」を結びます。
「何ができるのか」を考えるのはやめなさい。
「何ができたのか」を考えるのもやめなさい。
何事かを「自分がやった」と考える権利は、私たちにはありません。
何事かを「成し遂げよう」とする努力は無意味です。
私たちができることは、ただ一つ「イエス様にとどまること」だけです。
何かを成し遂げたいと思うなら、全身全霊をもって、ただイエス様に留まることです。
実を結びたいのなら、自分が「木」ではないのだと認めることです。
私たちは「枝」です。
「ぶどうの木」に留まっていなければ、実を結ぶどころか「枯れる」のです。
すべての力を「とどまる」ことに注ぎましょう。そうすれば「多くの実を結ぶ」と、主がはっきりと約束されたのです。
すべての力を「とどまること」に注いだならば、どれほどの実を結ぶことができるのでしょう。
私は、それを見たいと切に願っているのです。
私は、イエス様にとどまります
あなたはブドウの木で私は枝です
私は主にとどまって多くの実を結びます