出エジプト16:15
イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何であるのかを知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えて下さったパンだ。
主は、マナを与えてくださいました
主は、イスラエルに「天からのパン」を下さいました。
それは不思議なものでした。
イスラエルの人々は、今までこのようなものを見たことがありませんでした。
ですから、彼らはそれに近づいて「これは何だろう」と言ったのです。
イスラエルの人々は、この不思議なものを「マナ」と呼びました。
「マナ」とは「これは何だ」と言う意味です。
つまり、彼らは、毎朝「これは何だ」と言いながら「天からのパン」を集めたのです。
コエンドロの種とは、コリアンダーのことだと言われます。「白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった」と記されていますが、どのような味であったのか気になりますね。
イスラエルの人々は、その不思議な食物に驚きました。そして、毎朝、毎朝、必ず降って来る食物を有難いと思ったでしょう。
しかし、それも束の間でした。
イスラエルの中に「エジプトが混じって来ていた」のです。その「混じって来た者たち」に先導されて、イスラエルは「肉が食べたい」と泣き叫んだのです。
彼らは「恩知らずな子」となり「マナしかない。マナには飽きた」と叫んだのです。
エジプトとは「この世」の型です。「この世」に引きずられてはなりません。
主は、日々「これは何だ」と驚きながら、恵みを拾い集める者を喜ばれます。
悪しき者は、マナを集めさせないように企みます。
「お前の手には何もない。マナなんかあっても役に立たないだろう」と言ってきます。
「何の変化も起こらないじゃないか。いつも同じマナだけでは飽きるだろう」と言ってきます。
主のあわれみは尽きません。約束の地に入るまで「マナ」は降り続けました。それは常に「朝ごとに新しいマナ」です。昨日の「マナ」ではありません。
「これは何だ」という驚き、最初の感動を失くしてしまうとき、そこには「不平不満」が生まれます。
主は、私たちに必要な「マナ」を朝ごとに与えて下さいます。
天からの「いのちのパン」であるイエス様を、毎朝、驚き仰ぎ見ましょう。
「これは何だ」という好奇心、感動を持って、イエス様にお会いしましょう。朝の祈りの時を「ただの儀式」にしてしまうのはもったいないことです。
主のあわれみは尽きません。
それは常に「朝ごとに新しい」のです。
私は、新鮮な驚きをもって聖書を読みます
主のあわれみは尽きません
それは、常に朝ごとに新しいです