エレミヤ1:5
わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者として定めていた。
あまたは、ずっと知られています
主は、エレミヤが生まれる前から、すでに「預言者」として定めておられました。
エレミヤの召命のできごとを見ると、主の御目に、私たちがどのように映っているのかが少し分かります。
主は、私たちを「知って」おられます。
しかも、それは「胎内に形造る前から」です。
「知る」とは「体験的に知る」という意味です。少し可愛らしく「知り合いになっていた」と訳すこともできます。
主が「私」を認識し「私」と知り合いになられたのは、私が「胎内に形造られる前」です。
つまり「私自身」が「私」を認識する以前から、主は「私」を知っておられるのです。主の方が「私」との付き合いが長いと言うことになります。そして、当然ながら、主の方が「私」のことをよく知っておられるのです。
エレミヤは、召命を受けたとき言いました。
エレミヤは「自分が預言者だなんてとんでもない、私はふさわしくありません」と言ったのです。
しかし、主は、エレミヤよりもエレミヤのことをご存知です。主は、ご自身が「誰を召しておられるのか」よく知っておられます。
あなたは「主に知られて」います。
「若いか」「高齢か」「できるか」「できないか」などを、主が問題にされることはありません。
「こんな自分が用いられるわけがない」という思いは捨てなさい。あなたが「どんな者」であっても、主はあなたに「驚かれる」ことはありません。
「まさか、そんなに若いだなんて」「まさか、そんなに高齢だとは」「まさか、そんな罪を犯していたのか」などと決して言われません。
私たちは「自分が何であるか」を気にする必要はありません。もう少しはっきり言えば「気にしても意味はない」のです。
事を成さるのは「あわれんでくださる主」です。すべてのことは、神によって成るのです。
ただ一つ、私たちがするべきことは「神のみこころのままに」と意志を持って委ねることだけです。
エレミヤが「生まれる前」から「聖別」されていたように、あなたも「生まれる前」から「取り分けられて」います。
エレミヤが「生まれる前」から「預言者」として定められていたように、あなたにも「定め」があるのです。
「まだ早い」「もう遅い」は、どちらも、主の御前にふさわしい言葉ではありません。
「時」は御手の中にあります。
私たちは「自分の理想の自分」「自分の思う自分」を御前に投げ捨てましょう。
「こんな自分でありたい」という理想ではなく「主の定められた自分」となることができますように。
「こんな自分なんて」という思いは捨てて「主の意図された自分」を受け入れることができますように。
主は、あなたを「ずっと前から知っている」と言われます。
今、御心が解放されますように。主が意図された者となりますように。
御心よ、私の上に成れ
主がすべて知っておられることを感謝します
私は、ただ主に従います

