No.306 泳ぐのではなく「浮かぶ」のです

浮く赤ちゃん

エゼキエル47:5
彼がさらに千キュビト測ると、水かさが増して渡ることのできない川になった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。

渡ることのできない川です

私たちはまだ「足首」までしか「水」に浸っていないのかもしれません。

「足首」までの水であるならば「自力」で歩こうとするでしょう。「腰」までだとどうでしょう。水に抗って懸命に立とうとする人もいるかと思います。

エゼキエル47:5
彼がさらに千キュビト測ると、水かさが増して渡ることのできない川になった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。

御霊は「豊かな川」です。恵みの御霊は「あふれんばかり豊か」なのです。そして、それは最終的には「渡ることができない川」となります。

つまり私たちは「自力」で向こう岸にはたどり着けないと悟ることになります。

御霊が「豊かにあふれる」と、私たちは時々、尻込みしてしまいます。広すぎて深すぎて、得体がしれないと恐ろしくなるからです。

そして「こんな渡ることのできない恐ろしい川が、いのちの川であるわけない」と勝手に考えてしまうのです。

自分の足で渡れる川など、たいした川ではありません。私たちの頭で理解できるような「豊かさ」は、主が啓示されるものの「ほんの一部」です。

本当の「いのちの川」は、人には渡ることのできないものです。そして「自分の力では渡ることができない」ことを、私たちが本当に悟ったとき「御霊の御力」にあふれるのです。

あなたが御霊に導かれて進んで行くならば、あるとき「足のつかない場所」に導かれるでしょう。

そのときには、焦ったり、恐れたりしてはなりません。引き返してはなりません。それは「水かさが増した」だけです。

足を川底から離し、そして「浮かぶ」のです。泳ごうとすれば沈むでしょう。泳げるほどに「深い」けれど「渡ることのできない川」なのです。

「委ねるとはプールに浮かぶがごとし」と口癖のように仰っていた先生がいました。確かに、その通りです。

キャサリン・クールマン師は「努力せずに、ゆだねなさい」と言いました。

ミスター・ペンテコステと呼ばれるデュプリース師は「何かをしようとするな。明け渡せ」と言いました。

豊かな流れに飛び込んだなら泳ごうとしてはなりません。「浮かぶ」のです。私たちは「御霊の中に浮かぶ」ように生きればよいのです。

あなたを運ぶのは「御霊」です。あなたに川を渡らせるのは「御霊」です。そして、不思議なことに「渡ることのできない川」もまた「御霊」なのです。

私たちは「御霊の中に入る」のです。

そうすれば「御霊」が向こう岸へ導いてくださいます。

主よ、委ねることを教えてください
御霊の中に入れてください
御霊に導かれて歩みます