ローマ8:14
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
御霊に柔軟な働きだと彼は言いました
ピーター・ヴァン・ベルデンという人がいます。コーリー・テン・ブームの甥にあたる人です。
ある人が彼に尋ねました。
「最近、君はどんな働きを担っているの?」
ピーターは、こう答えたそうです。
「御霊に柔軟な働きだ」と。
そして彼は「御霊に柔軟な働き」がどのようなものなのか説明してくれました。
エルサレムに引っ越したばかりのピーター夫妻は通うべき教会を捜していたそうです。
もちろん「福音的な生き生きとした教会」に通うつもりでいました。
しかし、不思議なことに、主は別の教会を示されたと言うのです。
主は、明確にアパートの真下にあるシリア正教会に出席しなさいと語られたのでした。彼らはとても驚きました。まず何よりも、彼らは今まで自分たちの下にそんな教会があることにさえ気づいていなかったのです。それにまた、シリア正教会ではどのような礼拝がもたれているのかさえ見当がつきませんでした。ですが、彼らは主に従うことを決心し、その小さな教会に出かけたのです。
とりなしと祈り ヨハネス・ファシウス著 マルコーシュ・パブリケーション
シリア正教会の礼拝に出席したピーター夫妻は、司祭の言っていることも、行っている儀式も「まったく理解できなかった」と言っています。
彼らは、礼拝の間、ただ司祭のために「とりなそうと決めた」のです。
そして、数か月間、彼らは定期的に「主を礼拝するために」この小さな教会に通いました。
ある日曜日、ピーターは礼拝に出席することができませんでした。彼は、病に倒れ、彼の妻は家に残って彼の世話をすることになりました。
次の日曜日にまた教会に行くと、礼拝後、その司祭は初めて降りてきて彼らに声をかけて来たのです。「先週の日曜日にはどこにおられたのですか。私から離れようとしたのではないでしょうね」と尋ねてきたのです。そのとき、ピーターは妻に言いました。「この人のために手を置いて、祈ろう」
彼らが手を置いて祈ると、聖霊がシリア正教会の司祭の上に臨んだのです。そのとき、司祭は神と出会い、生まれ変わったと同時に、聖霊に満たされ、まったく別の人に変えられたのです。
私たちが聖霊にまったく柔軟になるとき、このようなことが起こります。
とりなしと祈り ヨハネス・ファシウス著 マルコーシュ・パブリケーション
ピーター夫妻が行ったようなことが、私たちの周囲でも行われるようになったなら、おそらく「秩序の崩壊」「権威の軽視」「悪しき者の惑わし」などと叫ぶ声があがるでしょう。
実際に、私自身、これを「すんなり受け入れる」のは難しいと思ってしまうのです。
なぜかと言うと「恐ろしい」からです。
間違えることが「恐ろしい」のです。
失敗することが「恐ろしい」のです。
異端になった、変になったと言われるのが「恐ろしい」のです。
しかし、私は「恐れ」によって導かれるわけにはいきません。
神は愛です。
御霊は「愛」によって導かれます。「恐れ」は決定する理由にはなりません。
愛する兄弟姉妹。
恐れずに「御霊に柔軟になる」ことを求めましょう。愛する方の御声を間違わないように、日々、御霊の声を慕い求めましょう。
私たちは、聖霊が臨まれるとき力を受けます。しかし、その御力は「聖霊の導きに柔軟」でなければ現わされません。
「今、どんな奉仕をしているの?」と聞かれたならば、私も、「御霊に柔軟な働きだ」と答えられるようになりたいと思うのです。
私は御霊に導かれる神の子どもです
奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けました