No.254 天の父のみこころは「キリスト」です

麦の穂

マタイ7:21
わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころをを行う者が入るのです。

主の名によって預言し、悪霊を追い出しても

マタイ7:22
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」

終わりの日に「多くの者」が「なぜ?」と言うのです。

彼らは「預言をし」「悪霊を追い出し」「奇跡を行った」のです。

彼らは、立派な人に見えます。彼ら自身も「自分は大丈夫。立派に行った」と思っていたでしょう。

しかし、イエス様は言われます。

マタイ7:23
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちをまったく知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」

これ以上の絶望はありません。これ以上の悲劇もありません。しかし「その日」には「多くの者」がこのように宣告されるのです。

私たちは「預言をし」「悪霊を追い出し」「奇跡を行っ」ている人々を見ると、彼らが「主と素晴らしい関係」を持っているのだろうなと思います。

しかし「賜物を行使する」ことと「主との素晴らしい関係を持っていること」は常に「=イコール」ではありません。

もちろん、多くの預言者や伝道者は「主との素晴らしい関係」の中に保たれているでしょう。しかし、それは「賜物を行使」しているから保たれているのではないのです。

バラムは素晴らしい預言をしました。彼は言いました。

民数記24:17a
私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。

ベオルの子バラムは、私たちの救い主イエス様について預言しました。

これは素晴らしい預言です。格好いい預言です。そして、ほんとうに「神からのことば」でした。

しかし、バラム自身は「神」ではなく「不義の報酬」を愛した人として知られています。そして結果的に、イスラエルに滅ぼされます。

私たちは「行い」では御国に行くことはできません。私たちが「預言」をしても「奇跡」を行っても、たとえ「死者をよみがえらせても」その「行い」では御国に入ることはできないのです。

追い求めるべきは「天の父のみこころ」です。

「天におられるわたしの父のみこころをを行う者」が天の御国に入るとイエス様は言われました。

「天の父のみこころ」とは「イエス・キリスト」です。

イエス様こそ「神を説き明かされた方」です。イエス様は「神の本質の現れ」です。イエス様こそ「神のことば」です。

私たちは、心を尽くして「キリスト」を思い求めます。

「賜物」ではなく、その「与え主」を慕います。

「現われ」に目を奪われてはなりません。

その「実」によって見分けるのです。「実」はイエス様を離れては決して結べないからです。

私たちは「その日」を喜んで迎えましょう。

そのために「天の父のみこころ」を切に慕い求めましょう。

私は、イエス様を求めます
「行い」ではなく「信仰」によって救われることを感謝します

「現われ」に惑わされることがありませんように