箴言29:25
人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高いところにかくまわれる。
罠にかけられるのです
イスラエルの初代王サウルは「罠にかかった」典型的な人物です。
油注がれたサウルは「新しい人に変えられ」ました。
そして、預言者サムエルは、サウル王に言ったのです。「手あたりしだい何でもしなさい」と。
主がともにおられるので、サウル王が何をしても祝福されます。サウルは自由に何でもできました。「新しい人」となったサウルは「手あたりしだい何でも」できたのです。
私たちは「キリストにあって新しく造られた者」です。古いものは過ぎ去ったのです。すべてが「新しい」のです。主がともにおられるので、私たちは自由に「何でも」できるのです。
にもかかわらず、聖徒の多くは「不自由」に生きています。「奴隷のくびき」を負っているように生きています。
サウルの最後は悲劇的なものです。サウルは、主の御心から逸れてしまいました。
その原因の一つは、サウルが「人を恐れた」からです。
「兵士」たちが自分から去って行ったら、自分はもう王ではなくなる、戦うことはできない、滅びてしまうと考えたのです。彼は「兵」つまり「民」を失いたくないと思いました。
サウルは、兵に去られることを恐れました。ゆえに「兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従った」のです。
「人を恐れると罠にかかる」のです。「罠にかかる」とは「捕らえられる」ということです。
兵たちを恐れたサウルは「捕らえられ」自由に生きる力を失いました。彼は「罠にかかった」のです。
サウルの「自由」は「恐れ」によって妨害されました。「手あたりしだい何もかも」行うことができなくなりました。彼は「自分を守る」つもりが「失った」のです。
残念なことに、私たちを突き落とす可能性のある人は「どこにでも」存在するものです。
「その人」の機嫌一つで、私の一日が「良くも悪くもなる」という人が周囲に確かに存在します。
「その人」を失ったら「自分は生きてはいけない」と依存してしまうこともあるかもしれません。
「怖がるまい」と思っても「怖い気持ち」は消えません。「こんなことではダメだ、頑張ろう」と決心しても、その人を見ると勇気もシナシナになってしまいます。
「恐れ」とは、本当にやっかいなものです。しかし、放っておいてはなりません。毎日を「ビクビク」暮らしてはなりません。
「人への恐れ」は、あなたの人生を妨害します。あなたが自由に御心を成し遂げることを妨げます。
「罠にかからない」ためには「かくまわれる」ことが必要です。
主に信頼することです。
そうすれば「高いところ」にかくまわれます。そこには「罠」は仕掛けられないのです。
主よ、私はあなたを信頼します
私を高いところにかくまってください
私は罠にはかかりません