マタイ24:37
人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
すべてが沈みました
ノアが箱舟に入ることができたのは主の御前に正しいことが分かったからです。
ノアは、まだ見ていない事柄について警告を受けました。主は、ノアに「すべての肉なるものの終わり」を告げられました。
信じられないような話です。今、目の前にあるものがすべて滅びると言われるのです。主は、地上に大洪水をもたらすと言われました。そして、ノアに箱舟を作るように命じられたのです。
信仰によって、ノアは恐れかしこんで救いのために箱舟を造りました。ノアは、信仰による義を受け継ぐ者となりました。いつの時代でも「正しいとされる」のは、信仰によるのです。「義人」とは、信仰によって生きる人のことです。
信仰によってノアは、箱舟を造り続けました。ノアにとっても忍耐の年月でしたが、主も忍耐しておられたのです。ノアが箱舟を造るその一日一日は、世の人々への主の忍耐と憐れみの一日一日でした。
うしろの戸が閉ざされました。主が閉ざされたのです。もう誰もそこに入ることはできません。主の忍耐の日は終わったのです。
水かさはどんどん増します。箱舟は浮き上がりました。ノアの手造りの舟ですが、設計されたのは神です。そして、それはとても大きな箱型の舟でした。
箱舟の大きさは、長さが三百キュビト(約百四十メートル)、幅が五十キュビト(約二十三メートル)、高さが三十キュビト(約十四メートル)で、シェーファーによれば、これは大西洋を横断したグレート・イースタン号とほぼ同じ大きさであり、スピードを出すのが目的でなく積載量の大きさを目的としている舟としては理想的なバランスであるという。おそらく一万五千トン級のものであったと思われる。
創世記 坂野慧吉著 いのちのことば社 P119
箱舟は完全に安全でした。黄金比によって造られていたからだけでなく、神の御手で守られていたからです。
世界で一番高い山もおおわれました。その上さらに6m以上も水かさが増したのです。全世界が沈んだのです。全てが滅びました。箱舟に乗っている者たちだけが救われたのです。
イエス様の到来はノアの日のように実現する
イエス様が言われたのです。
「人の子の到来は実現する」
「ノアの日と同じように」
つまり、イエス様の「再臨」も「ノアの日」のように現実に起こると言われたのです。イエス様ご自身が言われたのですから間違いありません。「ノアの日」は遠い昔のおとぎ話ではないし、「再臨」も夢物語ではないということです。
ノアが箱舟に入る「その日」とは、洪水の当日のことです。その当日まで人々は何の異変にも気がつかなかったのです。
大洪水の始まる前日に結婚した人もいたかもしれません。パーティーをして楽しんでいた人もいるでしょう。「また明日ね」と言って手を振って別れた人もいたでしょう。「また今度、集まろうね」と約束した人もいたでしょう。
けれど、「明日」は来ませんでした。彼らに「また今度」は訪れなかったのです。
人の子の到来もそのように来るとイエス様は言われました。これはとても厳粛な言葉です。
「取られる人」と「残される人」がいることは事実なのです。箱舟に乗れなかった人がいたのは本当のことなのです。ですから、イエス様は言われます。
「目を覚ましていなさい」そして「用心していなさい」と言われました。
なぜなら私たちは「主が来られる日を知らない」からです。そして「主は思いがけないときに来られる」からです。
私たちは忠実で賢いしもべです
信仰告白をした私たちは、「主人が帰って来ることを知っているしもべ」です。それは警告を受けて大洪水が来ることを知っていたノアと同じです。
ノアは信仰によって箱舟を造り続けました。本当に雨が降るのかと、良い天気が続く日々に不安を感じたこともあったかもしれません。「あいつは、一体何をしているのか」と笑われることもあったでしょう。
くる日もくる日も舟を造り続けました。箱型で複雑な構造ではなかったかもしれませんが、人の手で造るには、かなり巨大な箱です。
「いつ来るのか」「本当に来るのか」それは、主の御言葉以外に確証のないことです。それでもノアは造り続けました。彼は「忠実で賢いしもべ」でした。
ノアは、ただ箱舟を造っていただけではありません。彼の行動は、世の人々への警告でした。人々はノアに関心を持たなければならなかったのです。主は、ノアが箱舟を造っている間、待っておられました。しかし、誰もノアに注意を払いませんでした。それでも、ノアは造り続けたのです。
信仰者が最後に問われるのは「忠実さ」です。
忠実なしもべは賢いしもべです。そして、その人は幸いです。私たちがノアから学ぶ最も大切なことは「忠実であれ」ということです。
私たちは忠実であり続けましょう。目の前の状況に心を惑わされてはなりません。
確かに戦争のことを聞くことが増えました。地震も増えています。「世の終わりが近い」と誰もが感じていることでしょう。
つまり「陣痛」ということです。陣痛が起こったからといって、すぐに子どもは生まれません。痛みは、引いたり起こったりを繰り返します。
今ある戦争が収まって、束の間の平和が来たらどうでしょう。私たちは、安心してしまって気を引き締めることをやめるでしょうか。
悪いしもべは「帰って来そうにない」と思ったのです。「帰って来そうだ」と感じていたなら真面目に働いたのかもしれません。しかし、主に「忠実である」ことは状況には関わらないことです。
産みの苦しみを見てあわてたり、うろたえたりしてはなりません。「帰って来られるのが近い」と思うことは大切ですが、そのことと「忠実である」こととは別です。そうでなくても、私たちは「忠実である」べきなのです。
「忠実であること」は「状況」に左右されません。私たちは「状況」に仕えるのではないからです。私たちの主人は「イエス様」だけです。戻って来られるまで、どんな状況であっても「任されたこと」を忠実に行い続けるだけです。
私たちは、どんなときでも、世界が穏やかであっても、激動であっても、「いつ主が帰って来られても大丈夫」という過ごし方をする必要があります。なぜなら私たちの主は、「思いがけない時」に帰って来られる方なのですから。
食事を与えることは「しもべ」の役目です
「食事時に食事を与える」ことは「普通」のことです。それを「どんな時にも続ける」ことが「忠実である」ことです。
人々の必要に応えていくことは、聖徒の役割なのです。それは、所謂、教職者だけの役目ではありません。私は、信仰告白した人は、すべて「キリストの弟子」であると信じています。「弟子」にはなりたくない、ただ「救われたいだけ」などという理屈はとおりません。(この話は長くなるので、また別の機会にしましょう)
私たちの持っているものは、大群衆の前に何の役にも立たないように見えます。たった五つのパンと二匹の魚で何ができるでしょう。しかし、イエス様にあって可能なのです。主が、「あなたがたがあげなさい」と言われたのです。
それを主に献げます。すべて献げます。主が帰って来られるまで、自分のすべてを持って御言葉を伝えます。いのちのパンである方を人々に分け与えるのです。自分の言う事に人々が反応しないからと言ってあきらめてはなりません。主を知らない人には福音を宣べ伝えます。兄弟姉妹には、その徳を建て上げる御言葉を語ります。どんな時でもいのちのパンを分け与えます。私は、ただ忠実にそのことを行ないたいと望むのです。
油の入れ物を用意して待つことです
ノアの日について語られたあと言われたのが「24:42」の御言葉です。そして「25:13」の御言葉は「ともしびを持った10人の娘」のたとえを語られた後に言われたことです。
つまり、「ノアの日のこと」と「ともしびを持った10人の娘」のたとえ話は、同じことを教えているということです。
それは、「その日、その時を知らない私たちがどのように主を待つべきか」ということを教えているのです。
「ともしびを持った10人の娘」の話を見てみましょう。
賢い娘たちと愚かな娘たちの違いは一つだけです。
愚かな娘たちは「ともしび」だけを持っていました。賢い娘たちは「ともしびと入れ物に油」を持っていました。
10人全員が「花婿を待って」いました。つまり、この10人の娘は、「救われた聖徒」であるということです。「イエス様の再臨を待っている」私たちと同じです。
イエス様は、このたとえ話を「信じて花婿(イエス様)を待っている者」に向かって語られたのです。私たちは、賢い娘としてイエス様を待つことができます。また、もしかすると愚かな娘になってしまう可能性もあります。
「ともしび」が明確に何を表しているのかわかりません。娘たちのともしびは消えかけてはいたけれども、消えてはいませんでした。「ともしび」とは、主に対する「燃える心」「献身の心」「聖霊の感動」などを表すのかもしれません。「聖霊のバプテスマ」という先生もいます。「救い」であると言われる先生もいます。確かに、「戸が閉じられる」のですから「救い」であると言えるかもしれません。
いずれにせよ、それは「油」を継ぎ足さなければ、自力では長続きしない消えていくものであると理解できます。
いつも「心を燃やす」ことは難しいでしょうか。
しかし、絶えず外側から燃やしてもらわねば続かない信仰生活は、いつか破綻します。それは、眠ってしまったあとに明らかになります。外からの「刺激」が続く限り、自分が「油の入れ物」を持っていないことに気が付かないということはあり得るのです。
注意して見てください。
10人全員が「寝入って」しまったのです。「賢い」と呼ばれる娘たちも寝てしまったのです。この点、このたとえ話は安心しますね。
起きた時には、おそらく10人とも「ともしび」が消えかかっていたでしょう。しかし、賢い娘たちには「油」を「入れ物」に入れて持っていました。つまり、自分で油を継ぎ足すことができたのです。彼女たちの「ともしび」は整えられました。「花婿」を迎える用意はできました。
しかし、愚かな娘たちは「ともしび」を整えるための油を買いに行かねばなりませんでした。「油」を「入れ物」に入れて持っていなかったからです。
「戸が閉じられた」のです。箱舟のときと同じです。「閉じられた」なら、もう誰も中に入ることはできません。
なんという悲劇でしょう。今まで、中に入った5人の娘たちと仲良く「花婿」を待っていたのに、なぜこんなことが起こったのでしょう。
理由は一つです。「油」を「入れ物」に入れて持っていなかったからです。
「油」は「入れ物」に入れて持っていなければなりません。買いに行っていては間に合わないのです。
ある人が言っていました。
「若い頃は、相当なものでしたよ。心が燃えていて、早天祈祷会にも参加して、教会で奉仕をしていました。伝道も熱心にしていたんですよ。まあ、今は落ち着きましたね。聖日礼拝だけで満足できますよ。」
私は思います。それは落ち着いたのではありません。消えかかっているのです。
確かに年々、体力は衰えるかもしれません。しかし、主にある聖徒の「内なる人」は日々新しいのです。主のあわれみは尽きません。それは朝ごとに新しいのです。主の真実は力強いのです。
御霊を消してはなりません
心はどうすれば内に燃えるのでしょう。心が燃えるために必要なことは何でしょう。
エマオの途上の2人組は、なぜ心が内に燃えたのでしょう。
イエス様がともに歩かれたからです。そして、聖書を説き明かしてくださったからです。
イエス様とともに歩くと心が内に燃えます。聖書の説き明かしを聞くと心が内に燃えるのです。
今、私たちのうちにおられ、ともに歩んでくださるのはどなたでしょう。私たちをすべての真理に導き入れられるのはどなたでしょう。イエス様は去って行かれましたが、その代わり助け主なる聖霊が来てくださいました。私たちの心は聖霊とともに歩き、聖霊の語りかけを聞くとき、内に燃えるのです。
「油」と「入れ物」は携帯しなければならないのです。
それは、言い換えると「聖霊様と生きること」です。私たちは「聖霊の器」です。「油の入れ物」です。油を携帯して歩くことは簡単です。聖霊様に「住んで」いただけばいいのです。そして、それには聖霊様との交わりが不可欠なのです。
パウロは「御霊を消してはなりません」と言いました。つまり「御霊は消えることがある」ということです。
信仰告白したならば、みな、「聖霊の証印」を押されるのです。私たちは「神のこども」とされました。
しかし、いつの間にか「聖霊様の導き」に従わず「自分の心のまま」に歩んでいるとしたら…
聖霊様の語りかけを無視して「自分の思い」で生きているとしたら…
聖霊様は悲しまれます。そして、去って行かれるということもあるのです。
私たちは、自分の心がうちに燃えているかどうか自分で分かります。エマオの2人がそうであったように心が燃えていることは分かるのです。
賛美集会に行くと心が燃えます。素晴らしいメッセージを聞くと心が燃えます。
けれど1週間もすると、その火がくすぶりだしてしまうなら…
そして、また何か心を燃やすものを求めて探し回らなければならないとしたら…
外側からの「刺激」でしか「心が燃えない」という状態は正常ではないと私は思います。「何かしらの感動」を追い求めていなければ「満たされていない」と感じてしまうなら、少し立ち止まって考えてみる必要があります。
私は「聖霊に導かれて」いるだろうか?
「聖霊様が主」だろうか「私が主」だろうか?
私は「聖霊様を悲しませて」いないだろうか?
私たちは、自分の「心の内に聖霊様がおられること」を認識せねばなりません。「聖霊様に導かれて」歩むことを意識しなければなりません。「ともしび」の源はこの方なのです。聖霊様と日々を共に歩き、日々その語られることを聞きます。そうすれば「ともしび」は決して消えることはありません。
それは、あるときは激しく燃え上がります。そして、ある時は穏やかにゆらゆらと燃えることでしょう。たとえ眠ってしまうことがあったとしても、聖霊様との関係が確立されていれば「ともしびの火を整える」ことは簡単です。あなたは「ともしびの源」である方と一緒にあるのですから。
忠実に歩むこと、神とともに歩むこと
ノアは、神とともに歩みました。そして、すべて神が命じられたとおりに行いました。
神とともに、そして、忠実に…
イエス様は「人の子の到来は、ノアの日と同じように実現する」と言われました。
「人の子の到来」つまり「イエス様の再臨」は実現します。イエス様は必ず来られます。そして、それに伴って「終わりの日」も必ず訪れます。
終わりの時代の生き方を、私たちはノアから学ぶことができます。
忠実に、そして、神とともに歩むことです。
私たちは常に、聖霊様と一緒に歩みましょう。うちにおられる方に絶えず聞きながら交わりを保ち続けましょう。「ともしび」を消してはなりません。
ノアが箱舟を造り続けたように、主の来られるその日まで忠実に歩みましょう。時々、自分のしていることに何の意味があるのだろうと不安に感じることがあったとしても、それでも信仰によって一歩ずつ進むのです。
「忠実に、そして、神とともに生きる」それが終わりの時代の聖徒の生きる道です。
祝福を祈ります。