民数記16:47~48
モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。
走って行ったのはアロンです!
「急いで行き」そして「なだめを行ないなさい」とモーセは言いました。モーセは会見の天幕に留まっています。
走って行ったのは、アロンです。
アロンは、香をたいて宥めを行ないました。香は「祈り」の象徴です。
主は、アロンの香による宥めを受け入れらました。神罰は終わりました。
繰り返しますが、この時、走って行って「死んだ者たちと生きている者たちとの間に立った」のは「アロン」であったのです。「間に立つ」とは「とりなし」という意味です。
私は、この場面がとても好きです。とても慰められます。走って行ったのが「アロン」である事に感動します。主が「アロン」のとりなしを受け入れてくださったことに感動します。
なぜなら、失敗は終わりではないと思うからです。
モーセが 不在の折、アロンは民に迫られて金の子牛を作りました。
「集めた金を火に投げ入れたら子牛が出てきた」とアロンは言ったのです。
そんなバカげた言い訳がありますか。のみで鋳型を造り、それを金の子牛にしたのは彼だと聖書にちゃんと書いてあります。
アロンは、このような失敗をした人なのです。
けれど、この時「死んだ者たちと生きている者たちとの間に立った」のはアロンでした。主は、このアロンを「とりなし手」として用いて下さったのです。
アロンは失敗した人ですが「あわれみ」を受けました。彼は、それでも主の選びによる「大祭司」なのです。主の「あわれみ」によって、失敗は終わりではなくなります。
私も「あわれみ」を受けました。闇の中から光の中に移されました。馬鹿げた失敗をしでかしたとしても、それでも「王である祭司」です。
それは、私の願いや努力によらず、あわれんでくださる神によるからです。
イエス様は、天の幕屋から言われます。「走って行って、宥めを行いなさい」と。
主は、私を「間に立つもの」としてくださるのです。誰かを「とりなす者」として用いてくださるのです。私は、そのために「王である祭司」とされたのです。
御声を聞いたなら行きましょう。「間に立つもの」として「祈り」を持って走って行きましょう。
主は、私たちの「祈り」を必ず心に留めてくださいます。
失敗は終わりではありません。
主のあわれみによって私は祭司です。
とりなす者として間に立ちます。