No. 94 私たちは神様専用の器です

カップの写真

【Ⅰペテロ1:15~16】
むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである。」と書いてあるからです。

聖であるとは「聖別」です

「生活のすべてにおいて」とペテロは言います。

それは、「どんな場所にいても」「何をしていても」あらゆる場合に「聖」であれということです。

「聖」でなければならないと言われると、私たちは「完全無欠、罪を犯さない品行方正な生き方」をせねばならないと考えます。つまり、「行い」において「思い」において罪を犯さないようにしようと思うのです。

もちろん、罪を犯さずに生きていくのは良いことです。しかし、「聖」であるとは「罪を犯さない」という意味ではありません。

ヨハネ17:17
真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

「聖」であるとは「聖別」されることです。

そして「聖別」されることは「真理」によってなされるのです。

私たちは「真理」によって、すでに「聖別」されています。

「真理」とは「神のみことば」だとイエス様は言われます。

私たちは「神のことば」によって「聖」なのです。

世の中の人は「自分自身の価値観」に従って生きています。しかし、私たちは「神のみことば」によって生かされています。

私たちは「神のみことば」によって「神のものとして取り分けられた」のです。「聖別」とはそういう意味です。

それは、イエス様が御父に遣わされたように「私たちも遣わされるため」です。

ヨハネ17:18~19
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは彼らのため、わたし自信を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。

イエス様は「御父専用」として生きられました。そして、十字架の死にまで従われました。それは、私たちをも「聖別」するためです。つまり私たちも「神様専用」とされるのです。

「生活のすべてにおいて」取り分けられた者として生きなさいと、主は言われます。

「この世と調子を合わせてはいけません」と聖書はいいます。つまり、「世の中の人と同じように」考えてはいけませんということです。

私たちは「みことば」によって生かされていることを忘れてはなりません。私たちは「遣わされた者」なのです。

どこにいても「神様専用の器」であることを覚えてください。それが「聖」であるということです。

行いに目を留めるのではなく「聖である方」に目を向けます。そうすれば、私たちの「行い」も「思い」も取り分けられるでしょう。

主が「聖」であられるのです。主は、この世の何ものとも比べうるべき方ではありません。特別なお方です。

ゆえに、「神様専用の器」も特別なのです。「聖なる方」が使われるので「聖でなければならない」のです。

「神様専用」として聖別された器は、主がご自身のために用いてくださいます。

真理によって聖別してください。
神様専用として遣わされています。
主の栄光を現わしてください。