【Ⅰペテロ1:15~16】
むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである。」と書いてあるからです。
聖であるとは「聖別」です
「生活のすべてにおいて」とペテロは言います。
それは、「どんな場所にいても」「何をしていても」あらゆる場合に「聖」であれということです。
「聖」でなければならないと言われると、私たちは「完全無欠、罪を犯さない品行方正な生き方」をせねばならないと考えます。つまり、「行い」において「思い」において罪を犯さないようにしようと思うのです。
もちろん、罪を犯さずに生きていくのは良いことです。しかし、「聖」であるとは「罪を犯さない」という意味ではありません。
「聖」であるとは「聖別」されることです。
そして「聖別」されることは「真理」によってなされるのです。
私たちは「真理」によって、すでに「聖別」されています。
「真理」とは「神のみことば」だとイエス様は言われます。
私たちは「神のことば」によって「聖」なのです。
世の中の人は「自分自身の価値観」に従って生きています。しかし、私たちは「神のみことば」によって生かされています。
私たちは「神のみことば」によって「神のものとして取り分けられた」のです。「聖別」とはそういう意味です。
それは、イエス様が御父に遣わされたように「私たちも遣わされるため」です。
イエス様は「御父専用」として生きられました。そして、十字架の死にまで従われました。それは、私たちをも「聖別」するためです。つまり私たちも「神様専用」とされるのです。
「生活のすべてにおいて」取り分けられた者として生きなさいと、主は言われます。
「この世と調子を合わせてはいけません」と聖書はいいます。つまり、「世の中の人と同じように」考えてはいけませんということです。
私たちは「みことば」によって生かされていることを忘れてはなりません。私たちは「遣わされた者」なのです。
どこにいても「神様専用の器」であることを覚えてください。それが「聖」であるということです。
行いに目を留めるのではなく「聖である方」に目を向けます。そうすれば、私たちの「行い」も「思い」も取り分けられるでしょう。
主が「聖」であられるのです。主は、この世の何ものとも比べうるべき方ではありません。特別なお方です。
ゆえに、「神様専用の器」も特別なのです。「聖なる方」が使われるので「聖でなければならない」のです。
「神様専用」として聖別された器は、主がご自身のために用いてくださいます。
真理によって聖別してください。
神様専用として遣わされています。
主の栄光を現わしてください。