No.314 十字架で交換されたのです

窓辺の花

ガラテヤ3:13~14
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

イエス様は呪われた者となってくださいました

十字架は「交換の場」です。

私たちは「悔い改め」を「赦しを乞うこと」だと勘違いしてしまうことがあります。

必死になって「主よ、お赦しください。もうしません。二度としません」と平謝りに謝ることが悔い改めだと思ってしまうのです。涙を流して悲しめば「赦される」わけではありません。

「悔い改め」とは「この罪がいやになりました。必要ないのでもらってください」と言うことです。

「主よ、この罪が嫌いです。持っていたくありません。あなたが受け取ってください」と言うのです。

そうすれば、主は言われます。

「あなたの罪は、すでに処理済みだ。さあ、この赦しと交換してあげよう。雪のように白く、羊の毛のように白くなれ」と。

主は、ご自身が「のろわれた者」となってくださいました。それは、私たちの「のろい」を「祝福」に交換するためです。

恵みは無条件です。誰でも祝福を受けることができます。

ただ、悔い改めと同じで「言い表す」必要があるのです。受け取るためには「交換希望」と申し出る必要があるのです。

「主よ、私にのろいは必要ありません。祝福と交換してください」

あなたの「不要なもの」をすべて御前に持って出なさい。主の御前に「すべてを明け渡す」とは、そのようなことなのです。

「信仰」とは、主が「交換」してくださることを信じることです。

イザヤ53:4a
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。

主が「病」を負ってくださったのです。

ですから私たちは言いましょう。

「主よ、私に病は必要ありません。癒やしと交換してください。主が病を負ってくださったことを感謝します」

主が「痛み」を担ってくださったのです。ですから、こう言いましょう。

「主よ、私は痛みに耐えられません。平安と交換してください。あなたが痛みを担ってくださったことを感謝します」

イザヤ61:3
シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。

私たちは言いましょう。

「主よ、私に憂いの心は必要ありません。賛美の外套と交換してください」

イエス様は「代価」を払って、私たちの「罪、咎、病、痛み、憂い」などを買い取ってくださったのです。

言い換えれば、それはすべて「主のもの」と言えます。

私たちは「罪、咎、病、痛み、憂い」を持っているべきではありません。

すべてを御前に持って行きましょう。主は喜んで「すべてのよきもの」と交換してくださるでしょう。

私たちは、一度、主に交換してもらったものを大切にしなければなりません。

罪も憂いも取り戻してはなりません。「いらないのに戻って来た」と感じたなら、すぐさま返品です。

私たちに「祝福が及ぶため」にイエス様はのろわれた者になられたのです。

主が与えてくださった「祝福」を決して手離してはなりません。

私の「のろい」は、イエス様が負ってくださいました
私には「祝福」が及びます
憂いの心に代えて賛美の外套を着ます