Ⅱコリント1:3
私たちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
神がほめたたえられますように
私たちの神は「あらゆる慰めに満ちて」おられます。
この場合の「慰め」は、ただ同情するだけではありません。慰めと訳されている原語は「勧め励ますこと」また「寄り添って助けること」を意味します。
もう一人の助け主とは、もちろん聖霊様のことです。
聖霊様は「助け主」と呼ばれます。「助け主」とは「援助者として呼ばれた者」「寄り添って助ける者」という意味です。つまり「助け主」という語は「慰め」と同じ意味の言葉が用いられているのです。
「あらゆる慰めに満ちた神」は、すぐそばにおられます。聖霊様は、常に「寄り添い助けて」くださいます。
苦難にあったとき、私たちの心は勇気を失いそうになるかもしれません。もう二度と立ち上がれないのではないかと感じるかもしれません。何をしても無駄だと諦めてしまいそうになるかもしれません。
しかし、私たちの神は「あらゆる慰めに満ちた神」なのです。「あらゆる」とは、どんな状況でも、どんな人でもという意味です。
主の慰めはただの「同情」だけではありません。主の慰めは、私たちを確実に、励まし立ち上がらせるものです。
主は御言葉により「勧め励まし」てくださいます。
聖霊様は「イエス様がすでに世に勝った」ことを思い起こさせてくださいます。
絶えず「寄り添って助けて」くださいます。
人には不可能に見えたとしても、主は、私たちを「前に進ませる」ことがお出来になります。
苦難にあって勇気を失ってしまうのは「自分には何ができるだろう」と考えるからです。
また、「自分は何とみじめなのだろう」と自分を見つめるからです。
苦難に遭って勇気を失いそうになったなら、私たちがするべきことは一つだけです。
自分自身と周りの状況を見るのはやめて「私の神はどのような方だろう」と思いめぐらすことです。
私たちの神は「あらゆる慰めに満ちた神」です。「あらゆる」場合に「勧め励まし」「寄り添って助けて」くださる方です。不可能はない方です。
そして、状況に関わらず、どんな時でも、必ず「前に進ませる」ことがお出来になる方です。
主は「あらゆる慰めに満ちた神」です。
主は常に「寄り添い助けて」くださいます。
私は自分がどのような者か気にしません。
主はどのような方かと思いめぐらせます。