No.24 たとえそうでなくても

海と子ども

【ダニエル3:18】
しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。

火の燃える炉の中に

金の像を拝まなければ「火の燃える炉」に投げ込まれるのです。

「どの神が、私の手からおまえたちを救えるのか」とネブカドネツァル王は言いました。

ダニエル3:16
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。

「私たちはお答えする必要がありません」と彼らは言いました。

何も言うべきことなどないのです。なぜなら、どんなことを言われたとしても答えは決まっているからです。

主は彼ら3人を「火の燃える炉の中」から救い出すことがおできになります。全能の神に不可能なことなど何一つありません。

彼らは、主の全能の力を微塵も疑ってはいなかったでしょう。

けれど、3人が金の像を拝むことを拒否したのは「救い出される」からではありません。

「たとえそうでなくても」

彼らは、金の像を拝むことはしないのです。

「救い出されるか」「救い出されないか」は、彼らの決断には関係ないのです。

「たとえそうでなくても」

主が彼らを火の炉から救われなかったとしても、彼らは金の像を決して拝みはしません。

出エジプト20:3
あなたには、わたし以外に、他の神があってはならない。

出エジプト20:5a
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない

申命記6:4~5
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

主は唯一の神です。心を尽くして、いのちを尽くして、知性を尽くして、主を愛することは、重要な第一の戒めであるとイエス様は言われました。(cf.マタイ22:28)

私たちは、唯一の神以外に決してひざをかがめません。この決断は、ネブカドネツァル王に脅される前から、彼らの心の中にあったのです。

「死ぬか、生きるか」の選択をネブカドネツァルは突きつけました。

けれど、彼らの選択は「愛するか、愛さないか」「従うか、従わないか」であったのです。

サタンは、私たちに囁きます。「火の炉に投げ込まれるけどね、助けてもらえるかしらね、どうする?」と。

私たちは、それに答える必要などありません。

「たとえそうでなくても」

私は、主を愛します。主に従います。

なぜなら、私のこの決断の前に、まず神が決断して下さったからです。

Ⅰヨハネ4:9~10
神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって
私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって
神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
宥めのささげ物として御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。

まず神が御子を遣わそうと決断してくださったのです。

神が先に愛を明らかにしてくださったのです。

ですから、私たちは神の愛によって決断します。

「たとえそうでなくても」

目に見える「物」と「事」がどのようであっても、すでにここに愛はあります。

神がまず愛してくださいました。
すでにここに愛があることを感謝します。

私は神の愛を握りしめて決断します。
私は、主なる神だけをあがめます。