黙示録4:11
主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。
礼拝とは「ふさわしさを帰すこと」です
天において「二十四人の長老たち」は、主を礼拝しています。
彼らは「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」と言います。
「霊とまことをもって(A・W・トウザー著)」という本があります。何度も何度も繰り返し読んでいる、私の愛読書の1冊です。
その本の中から、少し長いですが引用したいと思います。
礼拝の要素として次に「畏敬の念」があります。つまり、全身全霊を込めて神を愛することです。恐れ、驚き、あこがれ、畏敬の心をもって神を愛することです。大いなるあこがれの気持ちをもって神を慕い、喜びと苦しみの両方の気持ちを抱いて神を愛することです。時には、この崇拝の気持ちのためにしーんと静まり返ってしまうこともあるでしょう。最も素晴らしい祈りとは、ひとこともことばを発せず、何の願い事もしない祈りだと思います。~中略~
時々、神に向かって私はこう言います。
「神よ、この世に私が生きている間、私の祈りを一つも聞いてくださらないとしても、私はあなたを礼拝します。あなたが今までにしてくださったことに対して、生ける限り、そしてまた来たる世々にもあなたを礼拝します」と。
霊とまことをもって A・W・トウザー著 いのちのことば社
「この世に私が生きている間、私の祈りを一つも聞いてくださらないとしても、私はあなたを礼拝します」とトウザー博士は言っています。
もちろん、主なる神はあわれみ深く、恵みに富んでおられるので、私たちの必要を満たしてくださいます。
しかし、これは「たとえそうでなくても」という告白なのです。
ダニエルの三人の友の告白を思い出します。
金の像を拝まなければ「燃える火の炉に投げ込むぞ」と彼らは脅されました。
彼らは「私たちの神は燃える火の炉から救い出す力がある。しかし、たとえ救い出されなかったとしても、それでも金の像を拝むことはしない」と言ったのです。
主に「救い出す力がある」ことに疑いの余地はありません。もし、今回「救い出す」ことが「御心」ではなかったとしても、それでも「主に仕える」ことは変わらないと彼らは宣言したのです。
私たちは、なぜ「主を礼拝する」のでしょう?
主が「良くしてくださったことのゆえ」にでしょうか。
もちろん「主が良くしてくださったこと」を決して忘れてはなりません。
しかし、たとえ「良いことが見つけられない時」「人生が思うように運ばない時」であっても、私たちは「主を礼拝」します。
どんなときでも「礼拝」をささげることはできるのです。
なぜなら、礼拝とは「ふさわしい価値を帰すこと」だからです。
「神が神であるがゆえ」に私たちは礼拝します。
神が「創造主」であるがゆえに礼拝します。
神が「万物の支配者」であるがゆえに礼拝します。
たとえ「私が願ったことが叶わなかった」としても、主が「造り主」であるがゆえに礼拝するのです。
主よ、あなたを礼拝します
創り主の御前にひれ伏します
私は、御手の中の羊です