申命記8:3
それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
それは生きるために不可欠なものです
主は「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということ」を分からせたいと思っておられます。
これは、切実なことです。
イスラエルの民は「生きるために」マナを集めました。
主は、それと同じように、私に「みことば」を集めて欲しいと願っておられるのです。
マナは「甘くて美味しいもの」であったようです。そのように「みことば」も甘くて美味しいものです。
しかし、イスラエルが「マナ」に飽きてしまったように、時として、私たちも「みことば」に飽きてしまうことがあるようです。
荒野のイスラエルは、マナに飽きたからと言って、毎日、集めることをやめたわけではありません。彼らは「肉が食べたい。キュウリも玉ねぎもない」とわめきながらも、毎日「マナ」を集めました。
マナは彼らにとって「嗜好品」ではなく「生きる糧」であったからです。
私たちにとって「聖書のみことば」は、食べても食べなくてもよいものではありません。
それは「生きるために必要不可欠なもの」です。
マーリン・キャローザース師は、高齢になり働きを退いたころ、主に驚くようなことを言われたと言います。
「お前は、なまぬるいクリスチャンだ。」
聖なる楽しみ マーリン・キャローザース著 生きる水の川
50年以上、神様のために休みなく働いて来たマーリン牧師が「なまぬるい」のであれば、私は一体何と呼ばれるのだろうと思います。
しかし、主は、マーリン牧師の「今までの働き」に対して「なまぬるい」と言われたわけではないのです。
何年も聖書を読み、聖書から説教してきた私は、聖書に何が書いてあるか知っている。だから、神のみことばをくつろいで楽な方法で読めばよいと考えていました。それはゆったりとした椅子に座って、昼寝に先立ってする娯楽的読書でした。しかし、それからの私は、真剣になってみことばを聞き、何か新しい事実を発見したいという意気込みで読みました。
聖なる楽しみ マーリン・キャローザース著 生きる水の川
私は、何も律法的に「義務感」によって聖書を読むべきだと言っているのではありません。
義務感だけで「食事」をする人がいるでしょうか。同じように、聖書のみことばも「味わい」「楽しむ」ことができると思っています。
ただ、私は聖書を「嗜好品」のように扱ってはならないと言いたいのです。
「聖書のみことば」は、食べなければ「生きていけない」ものです。
「今まで、必死に学んできたから大丈夫」ということはないのです。
「昨年は大食いしたから、今年一年は何も食べなくても大丈夫」などと言う人はいないでしょう。
「昔のみことば」で「今」を生きることはできません。
「なまぬるい」とは「霊が衰えている」ということです。
そして「霊が衰える」ならば、それとは反対に「肉が活性化」します。私たちの「肉」は、霊がしょんぼりすればするほど元気になるようです。
神が「霊」であるのなら、その子どもである私も「霊」です。みことばは「神の息吹」によって記されたのです。私たちの「霊」は「神の息吹」によらねば活性化されません。
私たちは「生きるために」聖書のみことばを集めましょう。それがなければ「生きていけないのだ」という思いで集めましょう。
私たちは「パンだけで生きるのではなく、主の御口から出るすべてのことばで生きる」のです。
主よ、私はあなたのみことばによって生かされています
私は、主のみことばを集めて生きます
私は、御霊の息吹によってのみ活性化されます