黙示録3:12
わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。
勝利を得る者は神殿の柱とされます
フィラデルフィアの教会に与えられた約束を学んでいきます。
「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする」
イエス様は、勝利を得る者を「神殿の柱」とすると言われました。
ソロモンが建てたエルサレムにある神殿には「名前のつけられた二本の柱」がありました。
本殿の玄関の前には、素晴らしい装飾を施された二本の柱が立てられました。
右側の柱は「ヤキン」という名で呼ばれました。
「ヤキン」とは「彼は設立する」「彼は樹立する」という意味です。
左側の柱は「ボアズ」と呼ばれます。
「ボアズ」とは「力をもって」「主にある強さ」などという意味です。
人々は、神殿を訪れるたびに、この二本の柱を目にします。
そして「主の御力によって建てられた神殿」の素晴らしさに感動するのです。
愛する兄弟姉妹。
勝利を得る者は「神殿の柱」とされるのです。
イエス様は「わたしの神の神殿」と言われましたから、それは「新しいエルサレムにある神殿」のことだと思われます。
新しいエルサレムには「見える形での神殿」はありません。
「全能の神である主と子羊」が神の都の神殿なのです。
新しい天と地のことを考えると、いつもとてもワクワクしますね。そこでは、私たちの概念はまったく通用しないのです。
そこは「見えないもの」を信じて歩んできた者たちの都です。そこでは、誰もが皆「信仰」によって生きています。私たちは永遠に「信仰」によって生きます。「信仰」はいつまでも残るのです。
信仰によって、私たちは「全能の神である主と子羊」を仰ぎます。神ご自身が神殿なのです。
そして、勝利を得る者は、その神殿の「生きた柱」とされるのでしょう。
人々は、その「生きた柱」を見るたびに「主の御力によって成し遂げられたこと」に感動し、主を誉めたたえるのではないかと思います。
「小さな群れ」「少しばかりの力しかない教会」でも、勝利を得たならば「神の神殿の柱」とされます。
私たちは「生ける石」として霊の家に築き上げられましょう。
それは「小さな石」かもしれませんが、神の神殿には「私という石」が必要なのです。
今、この地において「生ける石」として自分自身を献げるならば、来たるべき世で「神の神殿の柱」とされると私は信じます。
さて、もう少し「柱」の話を続けたいと思います。
ソロモンの建てた神殿の「二本の柱」には装飾が施されていました。
「ヤキン」と「ボアズ」の柱には「ザクロ」と「ゆりの花」の装飾が施されていました。
「ザクロ」とは、もちろん「果実」のことです。それはつまり「御霊の実」の象徴です。
「ゆりの花」は、「主イエスの復活の象徴」として親しまれていますね。
「神の神殿の生きた柱」に施される装飾も同じであると私は思います。
私たちは「賜物」を身に飾ることはできません。永遠に価値があるのは「御霊の実」つまり「品性」なのです。
パウロは「肉のわざ」を行っているものは「神の国を相続できない」と言っています。
神殿の生きた柱とされる者たちとは「神の国を相続した者たち」のことです。
そして、神の国を相続する者たちは「御霊の実」を結んでいるものです。
「賜物」は永遠に価値のあるものではありません。どれだけ「奇跡」を行っても、どんなに素晴らしい「教え」をしても、自分が「何を行ったのか」を誰も誇ることはできません。
私たちの地上でのすべての「良い行い」は、すでに備えられていたものです。私たちは「なすべきことをしただけ」です。誰一人「何をしたか」を誇ることはできません。
神殿の柱の装飾が「ザクロ」であることを覚えてください。
新しいエルサレムにおいても、神殿の柱には「実」が装飾されるでしょう。
おしゃれな兄姉たちは、御国では「着飾れない」ことを残念に思うでしょうか?
しかし、御国においても「着飾る」ことはできるのです。
ペテロは、姉妹たちに向かって語っていますが、原則としては「誰にでも」当てはまるものです。兄弟にも素敵に着飾っている人はいますものね。
ペテロは「神の前で価値のあるもの」について語っています。
それは「心の中の隠れた人を飾り」とすることです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、新しいエルサレムで、光り輝き、よい香りを放ちながら歩こうではありませんか。
そのためには、今、この地において「心の中の隠れた人」を飾ることに熱心になることです。
私たちは、自分の外側に気を遣うように、もっと「内なる人」を意識して歩む必要があります。
身だしなみを整える時間以上に「内なる人」を整える時間を取るべきです。
預言も異言も、知識も「すたれ」ます。しかし、愛は決して絶えることはありません。それは、永遠に神の御前に価値あるものなのです。
御霊の実である「愛」「喜び」「平安」は、あなたを輝かせます。
「寛容」「親切」「善意」「誠実」は、あなたから良い香りを放ちます。
「柔和」「自制」は、あなたを美しく整えます。
そして、もう一つ、あなたを飾る素晴らしいものがあります。
ソロモンの神殿の二本の柱の頂には「ゆりの花」の細工があったことを忘れてはなりません。
私たちは永遠に「キリストの復活」を誉めたたえる者です。
イエス様のよみがえりの御業こそ、私たちの飾りとしてふさわしいものです。
御国では、人々があなたを見るたび「主に栄光あれ。よみがえられた主にハレルヤ!」と言うでしょう。もしかすると、天の御国でのあいさつは「よみがえられた主にハレルヤ!」かもしれません。
これは、本当に個人的に思うだけですが…
私たちは、御国において「主の栄光」を文字通り「着る」のではないかと思います。
創世の初め、アダムとエバは「神のシェキナ―(栄光)」を着ていたので「裸」であったけれど恥ずかしくなかったのだという説があります。私も、そうなのだろうなと思っています。
天の御国では、私たちは「白い衣」を着ますが、それはおそらく「光り輝いている」と思うのです。私たちは「主のよみがえりの栄光」によって飾られるのではないかと想像します。まあ、これは本当に、ただの想像です。根拠に基づいたものではありません。
ただ、こうして、あれこれ御国について考えるのは楽しいですね。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「上を見上げて」生きましょう。
そこには、愛する主イエスがおられます。
私たちは、勝利者として生きましょう。
そして、主の神殿の柱とされることを望みつつ歩みましょう。
新しいエルサレムは、現実です。
新天新地は夢物語ではありません。
イエス様は、必ず来られます。
この地上に生かされているのは「一瞬」です。その「一瞬」を無駄に生きてはなりません。その「一瞬」を過ぎ去るもののために用いてはなりません。
「隠れた人」を着飾って生きましょう。「福音」を宣べ伝えて生きましょう。主の栄誉を告げるために、私たちはこの地に生かされているのです。
天の御国に憧れて、地上では旅人であり寄留者なのだと告白しつつ歩む者でありたいと私は願います。
新しいエルサレムの名
イエス様は、フィラデルフィアの教会にもう一つ約束を与えられました。
「勝利を得る者」すなわち「神の神殿の柱」とされる者の上には「名前」が書き記されます。
この「名前」は、彼らの名前ではなく「神の御名」「新しいエルサレムの名」「主イエスの新しい名」だと言われます。勝利を得る者には「三つの名」が記されることは間違いありません。
「神の御名」が記されるというのは「神の所有の民」の証だろうと思います。それ以上は、今のところ思いつきません。
あとの二つには「新しい」という語がついています。
「新しいエルサレム」は文字通り、本当に「新しいエルサレム」が御父のもとから下って来るからでしょう。
しかし、なぜイエス様は「わたしの新しい名」と言われたのでしょうか。
まず「新しいエルサレムの名が記される」ということについて考えてみましょう。
「新しいエルサレムの名」とは、新天新地における「住民票」のようなものなのかなと思えます。
私たちの永遠の住まいは、やがて天から下って来る新しい都エルサレムであるということを確かなものにします。これもやはり、勝利を得て天に凱旋した者への約束です。地上を離れて、天に迎え入れられるとき、私たちに書き込まれる新しいエルサレムの名前です。永遠の住まいとなる新しいエルサレムの市民であることの消えることのない保証となります。
黙示録の七つの教会への手紙 柴田敏彦著 いのちのことば社
イエス様は、私たちに「住まい」を備えると約束されました。
イエス様は、私たちのために「場所を用意しに行く」と言われました。
私たちには「住まい」が確保されています。行き場のない人はいません。
フィラデルフィアの町は地震の多い場所であったと言われています。フィラデルフィアの聖徒たちは、信仰の戦いに加えて、地震などの災害の恐怖とも戦っていたのです。彼らは、迫害からも地震からも逃げなくてはなりませんでした。もしかすると、一つの場所に留まることは難しかったのかもしれません。
しかし、主は約束されます。
「神殿の柱」とされた彼らは「もはや決して外に出て行くことはない」のです。
彼らは、もう迫害で追われることはありません。災害によって追われることもありません。
主は「永遠の御住まい」です。
愛する兄弟姉妹。
もう一度、見えるものは「一時的」であることを心に留めましょう。
これを見失ってしまうから、私たちは途方に暮れてしまうのです。
目の前の出来事が「すべて」であるならば、私には絶望しかありません。
しかし、私は「この世の知恵はすべて過ぎ去る」ことを知っています。
「世と世の欲」は過ぎ去ることを知っています。
私の場所はこの世にはありません。しかし、イエス様が「場所を備えてくださっている」ことを知っています。
神ご自身が備えられた都に、私も行くことを信じています。
「新しいエルサレムの名」が私たちにも記されます。それは、いつまでも「天国民」である証です。そして、それは、永遠に主とともにいることの証なのです。
エゼキエルは、千年王国時代の都について記しています。(新天新地の都について記されているという解釈もあります。いずれ、機会があればエゼキエル書を学びましょう)
主は、町の名前を変えられるのです。(新たな呼び名を加えられると言ったほうがいいかもしれません)
千年王国時代のエルサレムは「アドナイ・シャンマ(主はそこにおられる)」と呼ばれるのでしょう。
私たちに記される「新しいエルサレムの名」は、どのようなものでしょうか。
「神の臨在」に関係する名前なのではないかと、私は密かに思っています。もしくは「御霊の内住」に関係するような名前だろうか、と思ったりもします。
今、私たちにはすでに「神の証印」が押されています。それは霊的な証印なので見えませんが確かに押されているのです。
約束の聖霊こそ「神の証印」です。
私たちは、御霊の証印を押された者として歩みましょう。
そして、いつの日にか「新しいエルサレムの名」が記されることを待ち望みつつ生きましょう。
わたしの新しい名とイエス様は言われます
新しい都では、私たちは「新しい主の御名」を知ることになります。
つまり、主と私たちの「新たな関係」が始まるということです。
私たちは「救い主」としてイエス様を知っています。「イエス・キリスト」という御名を知っているのです。
もちろん、それは永遠に変わらない主の御名です。彼は、永遠に「屠られた子羊」です。
けれど、また、イエス様は「それ以上の方」です。
私たちは「神のあり方を捨てて、人となられた方」としてのイエス様を知っています。
自らを低くし、私のために十字架を負われ、死んで、葬られた方を知っています。
そして、聖なる霊により、死者の中から復活された方を知っています。
しかし、この御業は「完璧」ですが、これはイエス様の「すべて」ではありません。「神のふところにおられたひとり子の神の栄光」を私たちは、まだすべて知らないのです。私たちは、まだ少し垣間見ただけです。
イエス様は祈られました。
イエス様は、私たちを迎えに来てくださいます。それは「わたしがいるところに、あなたがたもともにいるようにするため」です。
そして、それは「わたしの栄光を、彼らが見るため」にです。
つまり、私たちは、御国において「主の栄光を見る」のです。
それは、人として地上を歩いておられたときには隠されていた栄光です。「世界の基が据えられる前」に御父とともにおられたときに輝いていた栄光です。
御国において、私たちとイエス様との関係性は変わります。
今まで「一部分」しか知らなかった方を「完全」に知ることになるのです。
主は、私たちに「新しい名」を知らせてくださいます。「名」とは「性質」を表すものですから、私たちはイエス様の「新たな一面」を知ることになるのでしょう。私たちは、主イエスの偉大な栄光を知ることになるのです。
それは「勝利を得て」「神殿の柱」とされる者にだけ明かされるものです。「天国民」だけが知ることのできる「名前」です。
私たちは、いますでに「キリストの名」で呼ばれる者です。
いや、天に戻ってからでなく、すでに今、地上で私たちは聖霊による証印を押されています。地上では旅人、寄留者を自認していますし、キリストの名を帯びてキリスト者、クリスチャンと呼ばれています。これが地上だけのものでなく、永遠のものに通じていたことを知って、今の大切さを覚えさせられます。
黙示録の七つの手紙 柴田敏彦著 いのちのことば社
「今」は「永遠」に続いています。
「今」、御霊の証印が押されていないなら「新しいエルサレムの名」を記されることはありません。
「今」、主イエスの御名を信じていないのなら「新しい主イエスの名」を記されることはできません。
あなたが「神の所有」でないなら「神の御名」を記されることなどあり得ないのです。
どうか「今」が「永遠」につながっていることを忘れないでください。
「今」は目の前の事に縛り付けられるためのものではありません。
「今」は「永遠」のために種を蒔くときです。
「今」は「永遠」への旅の途中です。
いずれ「時」のない「永遠」に入ります。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、内なる人を飾り立てて生きましょう。
外なる人は衰えますが、内なる人は「日々、新たに」されるのです。
神の御前に価値のあるもので、内なる人を飾りましょう。
御霊の実を豊かに実らせて、主イエスの御前に素晴らしい香りを漂わせましょう。
「小さな群れよ」
恐れることはありません。御父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださいます。
あなたの冠を誰にも奪われないように、持っているものをしっかりと保ちなさい。
「見えているもの」がすべてではないことを忘れないでください。
私たちは「上」を見上げて生きましょう。「上」にあるものを思って生きましょう。
主は、すぐに来られます。
主の現われを待ち望みつつ歩みましょう。
祝福を祈ります。