No.159 主のあわれみが尽きない限り

傘と空

Ⅱコリント4:8~9
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれますが、行き詰ることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

エレミヤが待ち望むことができる理由

哀歌3:21~22a
私はこれを心に思い返す。それゆえ私は言う。「私は待ち望む。主の恵みを。」

これは解釈が難しいと言われている箇所ですね。個人的な解釈になりますが、私は、この解釈に常に勇気をもらいます。

「心に思い返す」とは「これを覚えよ」と訳されることもあります。また「決して忘れず、覚えているからこそ」と訳している本もあります。

おそらく、意味していることはこうであろうと思います。

エレミヤは「苦しいことを覚えている」のです。そして「思い返して」いるのでしょう。この苦痛が、どうして起こったのかを思い返して覚えているのです。

つまり、エレミヤは痛みの原因を忘れないと言っているのです。幸せを忘れさせてしまったこの苦痛を覚えておこうと言っているのです。どうしてこのようなことになったのか忘れはしないと言っているのです。

そして、その後で続けて言います。「それゆえ、私のたましいは言う」と。「それゆえ」とは「この痛みを覚えているからこそ」という意味でしょう。

エレミヤは「苦痛」の原因を直視し、その痛みを覚えているからこそ言うのです。

「私は主を待ち望む。主の恵みを」

エレミヤが「主を待ち望む」と告白できる根拠はこれです。

哀歌3:22b
実に私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。

私たちは罪を犯した、それゆえ苦痛を味わっているとエレミヤは思っていました。しかし、目の前に多くの悲劇が起こっているけれど、それでも、「実に、私たちは滅び失せなかった」とエレミヤは言うのです。

愛する兄弟姉妹。

私たちは滅びていません。平安がはるか彼方に遠ざかってしまうように感じたとしても、幸せがどういうものか思い出せなくなったとしても、それでも滅びてはいないのです。

たとえ、苦痛の原因が自分の罪のためであったとしても「滅びていない」限り「望み」はあるのです。

主のあわれみが尽きないかぎり望みはあります。そして、主のあわれみは決して尽きることがありません。

主の恵みを待ち望みましょう。

Ⅱコリント4:8~9
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれますが、行き詰ることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

もうダメだと思うとき、自分に絶望するとき、そのときこそキリストのいのちが輝くときです。主の恵みが、その御力が明らかにされるときです。

私は滅びません。
主のあわれみは尽きません。
私は主を待ち望みます。