No.241 私は、主と「雇用関係」にはありません

ポニーと少年

ローマ4:4
働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。

恵みの中に生かされているのです

詩篇127:2(新改訳第3版)
あなたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは空しい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

朝から晩まで、身を粉にして働いて「辛苦の糧」を食べるのは「むなしい」と聖書は言います。

それは、一生懸命に働くのが「悪いこと」であるという意味ではありません。主に置かれた場所で、精一杯に生きることは素晴らしいことです。

しかし、考えてみてください。

あなたは「雇われ人」でしょうか。

それとも「子ども」でしょうか。

もし、私が「不平不満」を持つのであれば、私は「雇われ人」です。しかし、私が「感謝」を持つのであれば、私は「神の子ども」です。

私たちは、時々、誤解してしまうのです。

主が「与えてくださる」のは、私が「頑張ったからだ」と思ってしまうのです。

もちろん、私たちは「恵みによる救い」を信じていますから、大っぴらにそんな風には言いません.

しかし、思ってしまうのです。

「今日は、聖書を読まなかったから祝福されなかったのだ」

「これだけ祈って、断食までしたのだから、きっと祝福してくださるだろう」

私たちは、知らず知らずのうちに「雇われ人」になってしまっているのです。

「雇われ人」であるならば、働きに見合った報酬を要求するでしょう。そして自分が思った通りの報酬でなければ不満を感じるでしょう。

もし、あなたが不平不満を抱きながら生きているならば、あなたは「雇われ人」なのです。

何かをした見返りに「祝福」が与えられるとするならば、それは、もはや「恵み」ではありません。

何の働きもない者に与えられるからこそ「恵み」なのです。

主は、私たちが必死で働いたから祝福してくださるのではありません。主は「愛する者」には、眠っている間に備えてくださるのです。

ヨハネ6:28~29
すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」イエスは彼らに答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」

「何をすれば祝福されるのか」と問うのは、もうやめましょう。

「何をすれば」
「どこへ行けば」

それらは「雇われ人」の質問です。「何かをすること」によって与えられるものは「報酬」です。

しかし、主が私たちにくださるのは「恵み」です。

そして「恵み」とは「信じる者」に与えられるのです。

「神が遣わした者」すなわち、イエス様を信じる者は「恵み」によって救われるのです。

私たちは、常に「信じる者」に与えられる「恵み」によって生きるのです。

あなたが「イエス様を信じる者」であるならば、御父は「御子を愛する愛」によって祝福してくださいます。

主が、私たちに望んでおられるのは、徹頭徹尾、ただ「信頼」することだけです。

私は恵みの中を生かされています
私は、ただ主を信頼します
私はイエス様にあって祝福されます