No.273 水汲むしもべだけが奇跡を知るのです!

水やりする女の子

ヨハネ2:7~8
イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

必要なのは「ぶどう酒」なのです。しかし、


イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

イエス様は「水がめを水でいっぱいにしなさい」と言われました。

ここで「しもべ」は試されます。

「いえ、必要なのはぶどう酒です。水は十分にありますから、ぶどう酒をください」と言うならば、その「しもべ」は奇跡を見ることはできません。

もし私が、この「しもべ」であったなら、おそらく「ぶどう」をかき集めて来るでしょう。私は、きっと喜んで集めに行きます。

そして「さあ、イエス様、これでぶどう酒をお造り下さい」と満面の笑みを浮かべて言うでしょう。

私は「ぶどう酒」のために自分のできる限りを行なって満足します。最後の「仕上げ」をイエス様が成してくださるのを期待して見つめます。

しかし、いくら待っても「ぶどう」は「ぶどう酒」には変わりません。

そこで私は、まだ自分にできることがあるのだと考えます。私は「ぶどう」を自分で「ぶどう酒」に変えようとするのです。「主よ、ぶどう酒を造る方法をお示しください」と必死で祈りながら悪戦苦闘します。

そして、おそらくほんの少しの「ぶどう酒」を得るでしょう。しかし、そのころには「婚礼」はとっくに終わっているのです(笑)

イエス様は「水を汲め」と言われます。その「水がめ」にいっぱいに満たすべきは「水」です。

本当のしもべならば「あの方が言われることは何でも」するのです。

「何をしているのだろう」と疑問に感じたとしても「水」を汲むのです。いっぱいになるまでやめてはなりません。

ヨハネ2:9~10(新改訳第2版)
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか知らなかったので、
ーしかし、水を汲んだ手伝いの者たちは知っていた。ー
彼は、花婿を呼んで言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分に飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を良くも今まで取っておきました。」

終わりに出されるぶどう酒は「良いもの」でした。人々は、その「ぶどう酒」を楽しんだでしょう。

しかし、彼らは「それがどこから来たのか」は知りません。

ただ「手伝いの者たちは知っていた」のです。

「水汲むしもべ」だけが「奇跡」を見るのです。「奇跡」とは何の関係もいない「水を満たす」ことに尽力したしもべは知ることができるのです。

聖書では「水」とは、たいてい「みことば」の象徴です。私たちは「みことば」で「土の器」を満たすのです。

「みことば」を心に満たすことは、あなたの「必要としていること」に関係ないように見えるでしょう。

しかし、あなたが「みことば」で満ち溢れるなら、必ず「奇跡」を見ます。

主は、すべてをご存知です。「ぶどう酒」が必要なことぐらい理解しておられます。

主は「ぶどう」がなくても「ぶどう酒」を造ることがお出来になることを信じてください。

「みことば」に満ちるならば、時が来て「御霊の力」が現わされます。

人々が「ぶどう酒」で喜ぶ姿をあなたは見ます。「聖霊に満ちあふれた人々」を私は見ると信じます。

それが「どこから来たのか」は「水を汲んだしもべ」だけが知るのです。

私は「奇跡」を見ることができます
私は「みことば」を満たし続けます
必ず「水」が「ぶどう酒」に変わります