使徒5:3
すると、ペテロは言った。「アナニヤ。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のためにとっておいたのか。
恐ろしくて手が震えます
使徒の働きのこの箇所は、聖書の中で最も恐ろしいと私は思っています。この箇所から話すことは勇気がいります。
アナニヤは、自分の土地を売りました。そして、その代金の一部を献げたのです。このアナニヤの行為の何がいけなかったのでしょうか。
ペテロは、厳しく指摘しました。アナニヤは「神を欺く」という罪を犯したのです。
誰もアナニヤに「土地を売って献金せよ」とは命じませんでした。それは、売らなくてもよかったのです。また「一部だけささげる」ことも「全部ささげること」も、どちらでも自由でした。それは「あなたの自由になったのではないか」とペテロが言う通りです。
アナニヤの罪は「一部であるにも関わらず全部と偽ったこと」なのです。
なぜ、アナニヤとサッピラ夫妻は、このようなことを企てたのでしょう。それは「人に見せるため」です。
「自分たちは、地所の代金を全部ささげるほど献身しているのだ」というアピールです。「バルナバが畑の代金をささげたそうですね。実は私たちも地所をささげたのですよ」と言いたいためです。
これは献金のことだけではありません。
私たちは、心の一部しかささげていないのに「すべて主のものです」と告白することはできないのです。
この「見栄を張る心」「人に見せるための敬虔」「一部なのに全部と告白すること」こそ「偽善」です。そして、この偽善的行いは「自分自身を欺き」また「聖霊を欺くこと」なのです。
もちろん「聖霊を欺くこと」は誰にもできません。聖霊様は侮られるような方ではありません。実際、聖霊様を欺いた二人はどうなったでしょう。
アナニヤとサッピラ夫妻は、同じ日に同じ場所で、倒れて息絶えます。そして、同じ人々に運び出されます。恐ろしいことが教会で、皆の前で起こったのです。これを見たり、聞いたりした人々に大きな恐れが生じました。
初代教会には、大いなる聖霊の傾注がありました。
主は、毎日救われる人々を加えてくださいました。そこには、奇跡やいやしがありました。主のみことばは大胆に語られていました。
私は、心から、私たちの時代にも、このような御霊の傾注が与えられるように望みます。アズサ・ストリートのリバイバルのようなことが、私たちの教会にも起こることを願っています。
しかし、同時に、自問しています。「おまえは本気で願っているのか」「本当に聖霊様の測り知れない御力が注がれたら耐えることができるのか」と。
聖霊様の偉大な御力が、使徒の時代のようにあふれたならば「アナニヤとサッピラ」のような心を持つ者は耐えることができなくなるでしょう。
「偽善」の仮面をかぶり、敬虔でないのに敬虔であるかのように見せかけ、神の目ではなく「人の目」にどう写るのかを気にしているなら、私の結末は危ういでしょう。
もちろん、私たちは「主イエス」をお迎えしました。私たちは救われています。
しかし、アナニヤとサッピラの事件が「教会」で起こったことを忘れないでください。
私は、聖霊の激しい傾注を求めます。
ゆえに再び「主の通られる道をまっすぐ」にしたいのです。心のデコボコ道を平らにし、偽善の仮面をぬいで、真心から聖霊様をお迎えしたいのです。
私たちは、まず、自分を正直に認めましょう。自分自身も、そして、聖霊様も欺いてはなりません。
主よ、私を正直にしてください
偽善の仮面を脱ぎ捨てます
初代教会のような激しい聖霊の御力を注いでください