ローマ10:11
聖書はこう言っています。
「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
それは栄光が現れるためです
イエス様が留まられたのは「神の栄光が現れるため」です。このとき、御父のみこころは、ラザロの病を癒すことではなく死からよみがえらせることであったからです。
ラザロの病が死に至ったことは、マルタたちを悲しみに突き落としました。人々は、どうしてイエス様は癒しに来てくださらなかったのかと思ったのです。
それは「悪いこと」に見えました。それは絶望で、すべての望みが絶たれたと思えました。
私は思います。もし、私たちが自分の「良かれ」をすべて捨てて、ただ「みこころ」に従って歩むなら、どれほどの「神の栄光」が現れるのだろうと。
実際、私たちの「良かれ」は、神の栄光を妨げているのです。
「良い」か「悪い」か、「損」か「得」かは、導きの基準にはなりません。私たちの選択肢に「良い・悪い」「損・得」はないのです。
なぜなら、人の目から見た「良いこと」が必ずしも永遠に続くとは限らないし、人の目から見た「悪いこと」でも、主が働かれて益とされるからです。
目の前の出来事が「死に至る」ように見えても怯えてはなりません。理解できないことが起こったとしても慌てふためいてはなりません。
それは「終わり」ではないからです。
ラザロの病が「死で終わる」ものではなかったように、私たちのそれも「死で終わる」ことはありません。「悪いこと」のすべてが「悪い結末」をもたらしはしません。
私たちは「望み得ない時に望みを抱いて信じ」ることができるのです。
あなたは、この方を信頼しますか?
あなたが信頼するなら「失望させられる」ことは決してありません。
私は主を信頼します。
私は決して失望させられることはありません。
必ず栄光が現れます。