【Ⅰコリント8:2】
自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
彼らはよく知っていると思っていたのです
群衆は、イエス様の言葉を聞いて迷っていました。
権威に満ちた素晴らしい教えを聞いて、ある人たちは「この方はキリストだ」と言いました。別の人は「確かにあの預言者だ」と言いました。そして、他の人たちは「キリストはガリラヤから出るだろうか」と言いました。
祭司長たちやパリサイ人たちは、迷うこともしませんでした。
彼らは、自分たちは「知っている」と思っていたからです。
自分たちの知識に照らし合わせて、その結果、イエス様はメシアではないと言っているのです。
彼らは、救い主が「ベツレヘム」から出ると知っていました。そして、イエス様がガリラヤの出身であることも知っていました。
「本人の話を聞き」決断を下そうというニコデモに対し「調べればわかるだろう」と言いました。
この箇所を読んで、私はとても怖くなりました。
自分は、このパリサイ人たちと同じ過ちを犯していまうのではないだろうかと思ったのです。
確かに「聖書の権威」は絶対です。私は「神のことばの権威」を疑いません。
聖書に照らし合わせて、偽りを見抜くことは必要だと思っています。
パリサイ人たちは「正しかった」のです。
彼らの言う通り、救い主は「ベツレヘム」から出ると聖書には書いてあります。
しかし、彼らは知らなかったのです。イエス様が「ベツレヘム」でお生まれになったことを。
彼らは「知っていなかった」のに「知っている」と思って判断したのです。「知っていない」ことすら「知らなかった」のです。
前の訳では「知らなければならないほどのことも知ってはいない」となっていました。
私は「知らなければならない」ことさえ知ってはいないのです。
自分は何かを知っていると思って、その視点で「聖書」と照らし合わせても、間違った答えが導き出されるでしょう。
私は、まず、自分自身を「聖書」に照らさなければなりません。
そもそも、見た目だけ、うわべだけで判断してはならないのです。ウワサ程度の情報で、何かを判断することなどできないのです。
知識は人を高ぶらせるのです。
Ⅰコリント8:2の続きにはこう記されています。
私は聖書を学びます。しかし、「ただの知識」として学ぶならば、それは「高ぶり」を生むだけです。
しかし、「神を愛する」なら、私は「神に知られて」いるのです。
何かを「知ること」ではなく「神を愛する」ことを求めます。
私は裁くための「知識」ではなく「神を愛すること」を求めます。
主が来られれば、すべてがハッキリするのです。
それまでは、先走ったさばきをせず、主にすべてをお任せして歩みましょう。
私は主を愛します。
知るべきほどのことも知らないことをわきまえます。
先走った判断を下しませんように。