No.15 自分らしく歩むな!

一輪の花

【マタイ16:24~25】
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思うものはそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

自分とは捨てるべきものです

イエス様は「自分を捨て」ついて来なさいと言われました。

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失う」とも言われました。

ここで「いのち」と訳されていう単語は、「たましい」とも訳せます。ほかの箇所(マタイ10:28など)ではたましいと訳されています。

つまり「自分のたましいを救おうと思う者は、それを失い」とも訳せるのです。

「たましい」とは、「心」であるとした方が分かりやすいかもしれませんね。(完全に=ではないけれど細かいことは置いておきます)

私たちは「心(たましい)」で考え、感じ、決定します。

私たちは、「心(たましい)」を大切にしています。

「自分らしく、心のままに生きよう」などと言います。

けれどイエス様は、はっきりと「自分を捨て」と言われました。

「自分らしく、ありのまま」で良いなら、イエス様は、なぜ私たちのために十字架に架けられたのでしょう。

「自分らしく、ありのまま」では、滅びてしまうので十字架に架かってくださったのです。

Ⅱコリント10:5
私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打倒し、またすべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。

私たちは、神様の知識に逆らって立つ心の高慢を打ち砕きます。

そして、すべての「はかりごと(計画)」をイエス様に服従させます。

自由に生きること、自分らしく生きること、御霊の支配の下でそうであるならば、それは素晴らしいことでしょう。

しかし、それが「自分の心のままに生きる」ということであるならば、そのままではイエス様について行くことはできません。

ローマ6:20~21
あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。その行き着くところは死です。

日々、自分を捨て、そして、ついて来なさいとイエス様は言われたのです。

私たちは、「心(たましい)」すなわち「考え・感じ・決定すること」をイエス様に服従させます。

私は確信しています。

もし、あなたが、日々自分を捨てて主に従うならば、すべてのはかりごと(計画)を主に服従させるなら、自分らしさを捨てて、御霊に導かれて歩むなら…

あなたは、本当の自分らしさを得るでしょう。

世の光として最高に輝くことができるでしょう。

なぜなら、主のために「いのち(たましい)」を失う者は、それを得るからです

ガラテヤ2:20
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

私は、自分のすべての考え、思い、決定をイエス様に服従させます。
私は、自分を捨てイエス様について行きます。