ルカ6:48
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。
二つの家の違いは明らかです
二つの家の違いは、「土台をしっかりと据えたかどうか」です。どちらの家も洪水を免れることはできません。どちらの家にも嵐は吹きつけます。聖徒であっても苦難には遭います。困難を経験します。私たちは、この世に生きている限り、何らかの苦難を経験します。
川の水が押し寄せると「土台のない家」は倒れます。しかし、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えた家」は、しっかり建てられているのでびくともしません。
注意して見てください。
しっかり建てられた家は、ただ「岩の上」に建てられただけではないのです。「地面を深く掘り下げて」土台を据えた家なのです。しっかりと建てるためには「深く掘り下げる」ことが必要なのです。
私たちの土台は唯一です。
私たちの土台はイエス様です。私たちはみな、イエス様の上に建て上げられます。
しかし、それは、ただイエス様を信じると言えばいいだけではありません。イエス様は、この二つの家のたとえ話を、ご自分を「主よ、主よ」と呼ぶ人たちに語られたのです。
イエス様を「主よ」と呼びながら、イエス様のもとに来て、その言うことを行わない人は「土台なしで建てた人」です。
「主よ」と呼んでいるので、イエス様という土台の上に建てたつもりではいますが、実際に「深く掘り下げ」ないので土台を据えられていないのです。
そのような人の信仰は、苦難に耐えることはできないでしょう。
しっかりとした家を建てるためには「深く掘り下げる」のです。
そのためには「主よ」と呼ぶだけではだめです。イエス様のもとに来て、イエス様の言われることを行うのです。
イエス様を「主よ」と呼ぶなら「キリストにあって歩む」ことです。
「深く掘り下げ」なさい。ただうわべだけ信仰者のように歩んでいても「キリストに根ざす」生き方はできません。
まず、イエス様のもとに来て、そのみことばを聞きましょう。聖書を深く学ぶのです。そして、心に植え付けられたみことばを素直に受け入れます。
「みことばを聞いて、その通りに行う」ことが「深く掘り下げる」ことです。
「深く掘り下げる」のには時間がかかります。
みことばを学ぶことは時間がかかります。みことばを聞いて行う生き方は、一日だけのことではありません。
私たちは、日々、深く掘り下げるのです。そして、それを続けるのです。
そうすれば、私たちは倒れることはありません。「しっかりと建てられて」いれば、びくともしない家になるのです。
私は、日々、みことばを学びます。
私は、日々、主に聞き従います。
私の信仰はイエス様によって堅くされます。
私は倒れることはありません。