【へブル3:19】
このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。
それは不信仰のためでした
モーセに率いられてエジプトを出た人々は、約束の地に入ることができませんでした。それは「不信仰」のためであったと聖書は言います。
彼らは言いました。
「強い人たちがいるから無理だ」
「自分たちはバッタみたいなものだから無理だ」
いつまで侮るのか。
いつまで信じないのか。
主を侮り、信じなかった者は約束の地に入ることができなかったのです。
「不信仰」とは「主を侮る」ことです。
主は、約束の地を与えると言わました。しかし、偵察に行った人々は「それは無理」だと言いました。イスラエルの民は、「必ず勝利できる」と叫んだヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしました。
民は「主のことば」ではなく「偵察隊のことば」を信じました。「神のことば」より「人のことば」を選んだのです。
それは、「見える」ものだったからです。彼らは「不信仰」だったので「見えないものを確信する」ことができなかったのです。
聖書は神の約束に満ちています。主は私たちに約束を与えておられます。
「聖書には良いことが書いてあるけれど、自分の人生には起こらない」そんな偽りを信じてはなりません。
「どう見ても無理だ」とささやく声に聞き従ってはなりません。
私たちは必ず打ち勝つことができます。
たとえ私たちがバッタに見えても、本当に虫けらのようであったとしても、私たちとともにおられる方は強いのです。
信仰とは「見えないものを確信させるもの」です。
つまり「見えるものに希望を置かないこと」です。
見えないけれど、確かに生きて働かれる方に確信を置くことです。
「不信仰の心」とは「神を侮る心」です。
「それは無理だ」とは「神にはできない」と言っていることなのです。
それは「神を侮る」ことです。
神様は、決して侮られるような方ではありません。
私は信じます。主には不可能なことは一つもありません。
約束の地に入れられたヨシュアとカレブのように宣言しましょう。
主がともにおられるのです。
「必ず打ち勝つことができます」
私は主を信じます。
見えるものではなく見えないものによって歩みます。
必ず打ち勝つことができます。