No.356 私は、御霊に蒔いて「いのち」を刈り取ります

花車

箴言18:21
死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

いのちは「舌」に支配されています

私たちは「舌の実」を食べて生きています。

普段あまり意識してはいないかもしれませんが、私たちは「自分の話す言葉の実」で自分自身を養っているのです。

私は「肯定的思考」「積極的思考」のような話をしているのではありません。

「日常的な会話」の話をしているのです。

「肯定的な言葉」を宣言し続ければ「祝福」されると考えて、日々、聖書のみことばを宣言している兄姉もおられるでしょう。

もちろん、みことばを宣言するのは素晴らしいことです。

けれど、みことばを宣言しているのに、なぜか「あまり良い実を結べない」ということが起こり得るのです。

ガラテヤ6:8
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

もし、私たちが「普段の会話」において「肉からのことば」を語っているならば、毎日の御言葉の宣言を自ら台無しにしているのです。

私がイライラして「ちょっと、何やってるの、まったくダメな人だな」と誰かに言うとします。

それは「肉のイライラ」から発した言葉ですから、私は「肉に蒔いた」のです。

そのようにして、日々「肉からのことば」を蒔き続けるならば、当然、刈り取るのは「滅び」です。

毎日、みことばを宣言するのは大切です。しかし、それは「心に結びつけ」なければ無意味です。

みことばの宣言は「呪文」ではありません。それを「唱えれば」幸せになるというようなものではありません。

宣言とは「同意する」という意味です。心から「主のみことば」に同意することです。

大切なことは「みことばを生きる」ことです。つまり、評価されるのは「私たちの結ぶ実」であるということです。

いくら聖書を知っていても「肉のことば」を発しているのなら、刈り取るのは「滅び」です。

私たちは「舌の実」を食べて生きているのです。「知識」を食べて生きているのではありません。

「愛」について感動的な説明ができても、隣人を傷つけたり、冷たいことばを浴びせて歩んでいるのなら、私は「肉に蒔く者」なのです。

また自分に対してもそうです。

「もうだめだ」

「無理に決まってる」

「適当にやっておこう」

このような言葉も「肉からのことば」です。つまり刈り取るのは「滅び」です。

耳が痛いですね。私は、四六時中、このような言葉を発している気がします。

「死」か「生」かは「舌」によって決定されるのです。

「死」の方が先に記されているのが興味深いですね。委ねられていない「舌」は、「死の実」を結ぶことのほうが多いからかもしれません。

選んで食べるのは「自分自身」であることを覚えてください。たとえ「そんなつもりはなかった」としても、私たちは必ず「どちらか」を食べているのです。

しかも、聖書は「どちらかを愛して、人はその実を食べる」と言っています。

私たちは「どちらを愛して」いるでしょう。

詩篇34:12~13
いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと、日数の多いことを愛する人は。あなたの舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。

私たちは、互いに励まし合いながら、徳を高める言葉を掛け合いながら、一緒に歩んで行きましょう。

主よ、私は「いのち」を愛します
私の「舌」を聖霊様に委ねます
私を御霊に蒔く者としてください