ダニエル9:2
すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。
その背後には霊の戦いがあったと思うのです
ダニエル9章を学びます。9章を今のところ三回に分けるつもりでおります。今回は、「霊の戦いとダニエルが悟ったこと」を一緒に考えていきたいと思います。
カルデヤ人の国とは、バビロンのことです。この年、バビロン帝国は滅びて「メディアとペルシャの時代」が始まりました。
ダニエル書で言えば、5章の終わりと6章の時代です。
「金の頭」であるバビロンが終わったとき、ダニエルは「銀の胸と両腕の国」であるメディアとペルシャで要職についていました。
ダニエルが「際立って秀でていた」ので、王は「全国を治めさせよう」と考えました。大臣たちの中のトップにしようとしたのですね。
王のこの決定が、ほかの大臣たちの嫉妬心を燃え上がらせ、ダニエルを獅子の穴に投げ入れたことは、すでに学びました。ダニエル9章の幻は、そのころに与えられたものです。
このダニエルの敵たちの背後に霊的存在がいたことは明白だと私は思います。背後の存在は、ダニエルを葬りたいと思っていたのでしょう。
ダニエル9章は、聖書の預言の中で「最も注目するべき章」と呼ばれます。私たちの多くが興味を抱く「ダニエルの70週」の預言が与えられているからです。
ダニエル9章には「あなたの民」つまり「イスラエル」と「あなたの聖なる都」つまり「エルサレム」について、その定められたことが記されています。
おそらく、サタンは、ダニエルに「啓示」が与えられることを阻止したかったのでしょう。その「啓示」の内容を知っていたかどうかは分かりませんが、ダニエルに何らかの「啓示」「預言」が与えられることは知っていたのだと思います。そして、それを知ったダニエルの「とりなしの祈り」を恐れたのだと私は推測しています。(あくまで推測です)
ダニエルの背後で、霊的戦いが行われていたことは、ダニエル10章を学ぶともっと明らかになります。
私たちは、ついつい「地上のこと」にとらわれてしまいますが、私たちの戦いが「血肉に対するものではない」ことを覚えておかねばなりません。
「嫉妬、ねたみの背後に悪霊あり」「中傷の矢は悪霊が放つ」と、私は思っています。経験上、そうであると思います。
サウルがダビデをねたんだ背後には、悪霊がいました。それは、サウルがダビデを殺そうとしたことからも分かります。ダニエルも嫉妬によって殺されそうになりました。その背後には、当然、悪しき者の存在があったはずです。
同じように、あなたが「祈り」と「みことば」に励もうとするとき、敵は、当然、それを阻止しようとしてきます。敵の妨害は、直接的な妨害ばかりではありません。おそらく人間関係を用いて妨害してくることが多いのではないかと思います。人間関係において疲れさせ、気力を失わせ、祈りの力を奪おうとするのです。
もし、あなたが「嫉妬」や「ねたみ」「中傷」などで悩まされているならば、戦うべきは「その誰か」ではありません。立ち向かうべきは背後にいる「見えない敵」です。
私たちは、しっかり立って「悪魔に対抗」しましょう。決して、御言葉を学ぶことをやめてはなりません。祈ることをやめてはなりません。それこそ、敵の最も望むことなのですから。
それは文書によって悟ったのです
ダニエルの祈りの生活は、ダニエル6章で明らかになりました。ダニエルは「祈りの人」でした。
そして、この9章において、ダニエルが「みことばを学ぶ人」であることも明らかになります。
これは、確かな説ではありませんが、ある神学者は「詩篇119篇」をダニエルの著作であると言っています。そうであるかもしれません。私は詩篇119篇が大好きなので、そうであればいいなと思います。御国で確かめることのリストに入れておきたいと思います。
詩篇119篇がダニエルによるものであるかは別として、捕囚の地でダニエルが「みことば」によって信仰を建て上げたことは間違いありません。
エルサレムから遠く離されたダニエルは、神殿に上ることはできません。両親や師と仰げるような人々からも離されています。
ダニエルにとって、まさに「あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手」だったのでしょう。そして、主の「みことば」こそが「足のともしび」「道の光」であったのです。
ダニエルの時代、聖書は今と同じ形に編纂されたものではありませんでした。それでも、与えられた「神のことば」を忠実に、日々、慕い求めていたのであろうと想像できます。
「祈りとみことば」は、常にセットでなければなりません。私たちは「祈る人」であり「学ぶ人」でなければならないのです。
ダニエルは、「祈る人」であり「学ぶ人」でした。彼は「夢と幻を見る人」でもありましたが、主はダニエルを夢と幻だけで導かれはしませんでした。
とても重要なことをダニエルは悟りました。それは「みことば」を学ぶことによって得た悟りです。
ダニエルとエレミヤは、少し時代が重なっています。ダニエルがまだエルサレムにいた少年時代、エレミヤはすでに預言者として活動していました。
エレミヤは、ダニエルを知らなかったかもしれませんが、ダニエルはエレミヤを知っていたはずです。おそらく、エレミヤの預言のことばを覚えていたことでしょう。
エレミヤは、とても有名な預言者であったと思います。それは、他の預言者たちと異なる預言を語っていたからです。
他の預言者は「エルサレムは、決して災いにあわない。主は平安をくださる」と言っていました。しかし、エレミヤは「災いが来る。バビロンに仕えて生きよ」と言いました。
ダニエルは、エレミヤこそ「主の預言者」であることをその身を持って実感したのです。
ダニエルが「エレミヤの文書」で悟りを得たときには、もうすでにエレミヤは天に召されていました。しかし、エレミヤの預言のことばは「巻物」に記され、その写しをダニエルが持っていたことは確実です。巻物全部の写しであったかは定かではありませんが、必要なことは記されていたのです。
エレミヤの巻物の最初のものは、エホヤキム王によって「切り裂かれ」「燃やされ」ています。しかし、主は、再び、同じものをエレミヤに作成させます。
敵は、いつも「みことば」を葬り去ろうするのです。人々を御言葉から遠ざけます。「聖書」そのものを遠ざけることもしますし、蒔かれた御言葉の種を取り除こうともします。
私たちは、決して「みことば」を遠ざけてはなりません。それは、必死で抱きしめて、決して離してはならないものです。聖書を自由に読める国に生かされているのに、なぜ、私たちは「みことば」をもっともっと読まないのでしょう。主は、私たちに伝えたい、悟らせたいことがおありなのです。ゆえに、私たちに「みことば」を与えてくださっているのです。
主のみことば、決して滅びません。誰がひき裂こうと、誰が燃やそうと、それは、時を経て、大切なメッセージを悟らせるためにダニエルの手に渡ったのです。
それは70年でした
もう一度、ダニエル9:2を読みます。
ダニエルは、エレミヤの文書を読みました。それは、おそらく次のような箇所であったでしょう。
主のことばの通り、バビロンは滅びました。ダレイオスの元年とは、言い換えれば「バビロンが滅んだ年」ということです。そして、それはBC539年ごろのことです。(例によって諸説あります)
ダニエルが、バビロンに連れて来られたのは、おそらくBC605年ごろですから、70年近く前と言っていいでしょう。
ダニエルは「主が定められた70年」がもうすぐ終わることをエレミヤの文書により悟ったのです。ダニエルは、自分が時代の変わり目の重要な時に生かされていることを知りました。
私たちは、「主の時」を悟ったダニエルの態度に大いに学ぶ必要があります。
ダニエルは、神のことばを心から信じました
まず、ダニエルは、エレミヤの文書を真剣に受け留めました。つまり、書かれた「神のことば」を心から信じたのです。
聖書はすべて「神の霊感」によるものです。「神の霊感」とは、直訳すると「神の息吹による」です。
聖書の御言葉は「神の息吹による」のです。それはアダムに吹き込まれた「いのちの息」と同じです。ゆえに「御言葉は生きている」と言えるのです。
私たちは「神の御言葉は生きていて、力がある」ことを信じなければなりません。
イエス様は言われました。
これは、すでに十字架に架かられ、よみがえられた後に言われたことです。イエス様は「わたしについて書かれていることはすべて成就しました」とは言われませんでした。つまり、イエス様について「成就しなければならないこと」は、まだ他にもあるということになります。
一度目は、すべて成就しました。しかし、二度目はまだです。
二度目、つまり再臨は必ず来ます。イエス様は、再び、この地に来られるのです。御使いたちも「またおいでになります」と言いいました。これは、世の中の人々からすれば「ファンタジー」なのでしょう。しかし、私は、本気で信じています。そして、待ち焦がれています。あなたはどうですか?
イエス様は弟子たちの質問に答えてくださいました。「知る必要はない」とは言われませんでした。「いつ」とか「どんなとき」とかいうことは、私たちの知る限りではありません。しかし、私たちは、イエス様の再臨についての前兆は知るべきなのです。知っておく必要があるので語られたのです。
世界という視点で見れば、民族紛争は常にありましたし、飢饉で苦しむ人々も常に存在していました。しかし、今は、平和で安穏と暮らしていた私たちの国でさえ、何かしらの「危機感」を覚えるようになりました。
戦争は、終わることはありません。停戦しても、また始まります。反キリストが現れるまで、その繰り返しが続くでしょう。地震も頻繁に起こります。飢饉もますます増えるでしょう。
偽預言者は、教会の内外に多く現れるようになります。もう、かなり現れていると思います。多くの人がメディアの情報を含む「偽の預言」に惑わされているように感じます。
私たちは、産みの苦しみの時代に生かされています。
覚えてください。
「生かされている」のです。
それは、ダニエルと同じ役割をするためであると私は信じています。あなたも私も、時代の変わり目を生かされているのです。
今、必要なのは「時を悟り、何をするべきか知る人」です。
偽預言者のことばに振り回されない人が必要です。自分で聖書を読み、自分で判断できる人が必要です。自分の神として、主を知る人が必要です。「主とともに自主的に歩く人」が必要なのです。
まずは、ダニエルのように「みことば」から時を悟れるように求めましょう。真剣に聖書に書いてあることを受け止めましょう。預言書も嫌がらずに読みましょう(笑)
私たちは、まず、真剣に御言葉に取り組むことから始めましょう。そのためには、聖書に書かれていることが「生きた神のことば」であることを信じなければならないのです。
ダニエルは、その理由も悟りました
ダニエルは、御言葉を悟ったので「顔を神である主に向けて断食をし、荒布をまとって灰をかぶり、祈りと哀願をもって主を求めた」のです。
これは、深い悲しみと恥、へりくだり、悔い改めを表す行為です。
あと少しで解放されるという約束を発見したのに、なぜ「悲しみ」「恥」「悔い改め」を表明しているのでしょう。なぜ、喜び踊り回り感謝をささげないのでしょう。
それは、ダニエルが「70年の定めの時」に込められた「主のみこころ」を悟ったからです。
ダニエルはこのように祈っています。
つまり、エルサレムが荒らされ、捕囚の憂き目にあったのは「自分たちの罪のためであった」と告白しているのです。イスラエルが、主の律法に背き、主が遣わされた預言者たちの声を無視した結果であると言っているのです。
「モーセの律法に書かれているのろいの誓い」とは、レビ記や申命記に記されている祝福とのろいのことでしょう。
ダニエルは、自分たちの罪の結果が「エルサレムの崩壊」と「バビロン捕囚」を招いたのだと理解していました。つまり、これは「神のさばき」なのだと悟ったのです。
ダニエルが悟ったのは「70年」がもうすぐ来るという「時」だけではありません。ダニエルは、なぜ、自分たちが捕囚にあったのかという「理由」も悟ったのです。
私たちは、御言葉を読むとき、その背後にある「理由」を悟ろうとしているでしょうか?
主のみことばは、意味もなく語られはしません。主は、語られる言葉に必ず「意図」を持っておられます。言い換えれば、そこには必ず「御思い」があるのです。
「70年」という数字がわざわざ記されたのは何のためでしょう。それは、もちろん、ダニエルに「もうすぐ解放される時が来るから、とりなして祈りなさい」と伝えるためでしょう。
しかし、それだけではありません。そこには、理解するべき、神様の「意図」「御思い」があるのです。
聖書は、人々がバビロンへ捕らえ移された理由を語っています。
エルサレムの荒廃は「70年」です。それは、約束の地が「安息を満たす期間」であったと聖書は言います。
レビ記にはこう記されています。
「70年」の安息年を満たさなければならないということは、イスラエルは「490年」不信仰であったということになりますね。そうすると、カナンの地に入ってから、ほとんどずっと「不信仰」であったことになります。
主は約束して言われました。
私は、この御言葉を読むたびに思います。自分であったなら、この約束を信じて七年目に土地を休ませることができるだろうかと。
この命令の意図するところは「全面的に主を信頼できるかどうか」ということだろうと思います。イスラエルは、主を信頼することに失敗しました。しかし彼らは「主以外」のものには信頼しました。
諸外国の軍事力や富に信頼しました。偶像の神々を信頼しました。自分の策略や、難航不落と言われたエルサレムの砦に信頼しました。
ダニエルは「自分たちがずっと不信仰であった」ということを悟ったのです。主以外のものに依り頼み、主を捨てて自分たちの思うままに生きたことに対する「正当なさばき」が下ったのだと悟ったのです。
ゆえに「70年の定めの時」を悟った時、「顔を神である主に向けて断食をし、荒布をまとって灰をかぶり、祈りと哀願をもって主を求めた」のです。
ダニエルは「もうすぐ70年が来る。主の御言葉は必ず成るのだから、その日をただ待っていればいい」とは思えなかったのです。ひれ伏して「主よ、どうか私たちをお赦しください。あなたのさばきは正しいのです。私たちは裏切り者です」と言わずにはおられなかったのです。
主の「御思い」を考えたことがあるでしょうか
ダニエルはこう祈りました。
イスラエルの最大の罪は「主の信頼を裏切ったこと」であると私は思います。
主は、イスラエルを愛しておられます。エジプトから連れ出して、大切に育んでこられたのです。しかし、彼らは、約束の地に入った途端に、主を捨てました。主は、何度も警告を与えられ、ご自身の預言者を送って語られました。しかし、彼らは、主の元に戻っては来ませんでした。
旧約の預言書には、主の「こころ」が記されています。なんと激しく愛され、なんと激しく怒っておられるかが分かります。主は、イスラエルを愛しておられます。ゆえに、その裏切りに「心を痛めて」おられるのです。
「70年の定めの時」が来たからと言って、「さあ、これで罰も受けたし祝福してもらえますよね」と簡単に言えるでしょうか。
私たちは、この点において大きな間違いを犯していることがあります。
「信仰」をもって「みことば」を宣言することは大切です。しかし、「みことば」を盾にとって「書いてあるのだから、当然そうしてくださいますよね」と追い迫るような祈りはどうかと思うのです。
「祈りには強要、説得、疑い、懇願があってはならない」と言われます。私たちは時々「熱心に祈ること」で神様を傷つけていることがあるのです。
これは「関係」の問題なのです。つまり「心」の問題です。
主は、イスラエルに裏切られて「悲しく」「心を痛めて」おられるのです。
その「主のこころ」を踏みにじったまま「70年と書いてあります。主が言われたことは必ず成るのですから、戻してもらえますよね」というような態度を取ることは、ダニエルにはできなかったのだと私は思います。
愛する兄弟姉妹。
終わりの日には、人々の愛が冷めまます。それは、人々が「自分のことだけ」を愛するようになるからです。
お互いの愛も冷めますが、多くの聖徒の「主に対する愛」も冷めていくでしょう。
どうか覚えてください。
主は、あなたを愛しておられます。イスラエルを激しく愛された主は、あなたをも激しく愛しておられます。
みことばの背後にある「主の御思い」を悟りたいと求めてください。そうすれば、すべての背後に「主の愛」があることが分かります。
終りの時が近づくにつれ、見えるすべてが「主の愛」を否定しているように思えるでしょう。「神が愛ならなぜ」と人々が言うとき、私たちは、どちらの側に立っているでしょう。
どうか「主との関係」を確立してください。何が起ころうと、誰に何と言われても「私の主」に信頼を置けますように。主が「こころ」をお持ちであることを忘れないでください。
私たちに聖書が与えられていることを感謝しましょう。
主のみことばを持っていることは特権です。
主が、ますます私たちに「みことば」の背後にある「主のこころ」を悟らせてくださいますように。
祝福を祈ります。