ダニエルは、傍らに立つ人に聞きました
ベルシャツアルの元年にダニエルが見た幻について学んでいます。
前回はダニエル書7章1節から18節まで学びました。少し復習しながら進めます。
ダニエルは、与えられた幻の意味が分からなかったのです。それは、ダニエルを怯えさせました。そこで、傍らに立っている人、おそらく御使いに説明してもらおうと考えたのです。
なんとも短いあっさりとした説明です。しかし、これが、世界の歴史のあらすじであることは間違いありません。
この地には四つの世界帝国が現れ、それらすべては過ぎ行き、最終的に神の聖徒が国を受け継ぎ、それは永遠に保たれるのです。
すでに3つの世界帝国は起こりました。
鷲の翼をつけた獅子のような獣は、バビロンのネブカドネツァル王。
熊に似た獣は、メド・ペルシャのキュロス王。
四つの翼を持ち、四つの頭を持つ豹に似た獣は、ギリシャのアレクサンドロス大王と四人の後継者。
そして、恐ろしく不気味な四頭目の獣は、ローマ帝国を表しています。
ダニエルは、この四頭目の獣について、特に興味を持ちました。これが一体何なのか確かめたいと思ったのです。
今回は、この四頭目の獣について、ダニエルが聞いたことを学びたいと思います。
第四の獣について
第四の獣について「確かめたい」とダニエルは思いました。それは、この第四の獣が、あまりにも他の獣と違っていたからです。
他の獣は、ダニエルが知っている地上の獣に例えることができました。「獅子のよう」「熊のよう」「豹のよう」であったのです。
しかし、第四の獣については、ダニエルは何にも例えることができませんでした。見たことも、聞いたこともない獣であったからです。
ただそれは「非常に恐ろしく」見えました。その獣は「鉄の牙」を持っていました。そして「青銅の爪」を持っていました。
「鉄」と「青銅」に何らかの意味が暗示されているのか、私には分かりません。鉄のローマと青銅のギリシャに何らかの関係があるのかもしれません。
その獣は、かみ砕き、踏みつぶす、たいへん獰猛な獣であるとダニエルは言います。
この第四の獣には「十本の角」がありました。
使徒ヨハネも海から上って来る獣を見ました。そして、その獣には「十本の角」があるのです。
おそらく、使徒ヨハネが見た獣は、ダニエルが見た「第四の獣」と同じものであると思います。少なくとも同じ国を現わしているのは確かだと思います。
使徒ヨハネが見た獣は「豹に似ていて」「熊の足を持ち」「獅子の口」をしていました。
ダニエルの見た「第四の獣」は、今までの世界帝国をすべて合わせたようなものだったのかもしれません。今までかつて見たことのない、しかし、何かをほうふつとさせるような、そんな不思議で不気味な獣であったと思われます。
もしかすると、終わりの日に姿を現す「最後の世界帝国」は、今までの世界帝国の特徴をすべて持っているのかもしれません。
第四の獣であるローマ帝国は、もうすでに興りました。そして、過ぎ去ったように見えます。しかし、ローマ帝国は形を変えて生き残っていて、終わりの日に、最強の獣として、再び姿を現します。
10人の王と10本の足の指について
さて、ここで少しややこしい話をします。
第四の獣には「十本の角」があります。黙示録13章によると、その十本の角は「王冠」をかぶっています。
黙示録18章には「十本の角」は「十人の王」であると記されています。
ダニエル2章で学んだネブカドネツァルの夢に「足の指」が出てきます。
一般的(大方の見解)な説として「足の指」は普通「10本」あるので、この「足の指」と「10本の角」は同じ意味を表していると言われます。
しかし、少数ではありますが「足の指」と「10本の角」を混同してはならないという意見もあります。
これらの意見の相違を説明し始めると、とてつもなく長くなってしまいますので割愛しますが…
個人的には、「足の指」と「10本の角」とは、分けて考えた方が整理がしやすいなと思っています。
あくまで個人的な見解ですが、今の時点での私の理解は以下のとおりです。(以後、学びを進めていく中で意見が変わることは大いにあり得ます。)
終わりの時代の獣の国は「分裂した国」です。「足」は一つだけれど「指は分かれている」ように、おそらく獣の国は「連合国」なのだろうと思います。
それが「欧州連合(EU)」であるかは分かりません。ちなみに2024年1月1日現在において、EU加盟国は27か国です。
また、国連のような組織ではないかという意見もあります。そうかもしれません。
ただ、いずれにせよ、「ローマ帝国」の姿をした、その息吹が続いている国が出現することは間違いありません。
少なくとも私は「足の指」が「10か国」を表すとは思っていません。「分裂した多くの国」を象徴しているのではないかと考えています。
それでも、もしかすると、最終的にローマ帝国の姿をした「10か国連合」が誕生するのかもしれません。まさか、そんなことは起こらないだろうということが起こり得ることを私たちは知っています。なので、その可能性がないとは言えませんね。
ただその場合、私が引っかかってしまうのは、この「分裂した国」は「団結しない」ということなのです。
「鉄と粘土」の「足の指」は「分裂した国」を表します。それは確かです。そう書いてありますから。
そして、「それらが互いに団結することはありません」とダニエルは言っています。
つまりこの国は「分裂した国」であって「団結しない国」なのです。
さて、「10本の角」についての黙示録の記述を見てみましょう。
「10本の角」である「10人の王」は「一つ思いになり」と記されています。つまり彼らは「団結」するのです。
この「団結」は、見せかけだけのもので、本当の「団結」ではないという説もあります。ゆえに「10本の足の指」と「10人の王」は同じだとしても矛盾はないという理屈です。
そうかもしれません。そうでないとは断定はできません。「獣の国」は偽りが横行する国でしょうから、その可能性は大いにあります。
彼らは「心に企みを持ちながら」「うわべは良いことを言う」人々なのかもしれません。おそらく、そうでしょう。
しかし、そうであったとしても、素直に読めばやはり、「足の指」と「10本の角」は別のことを表していると解釈した方が無難ではないかと思います。
「分裂した国」「団結しない国」が集まって「獣の国」は形成されるのでしょう。「10人の王」とは、その連合国の「代表」みたいな人々ではないかと私は思います。国連の常任理事国みたいなものなのかなと思ったりもします。
ちなみに「10人の王」が、すべて同じ年代に登場するわけではないという見解もあります。この見解については、今じっくりと検討しております。しかし、もしそうであれば今までの考察が吹っ飛んでしまいますね(笑)
さて、「足の指」と「10本の角」についてのお話はこの辺りでやめておきます。黙示録の学びの際に、また考察していきたいと思います。
私たちは、ますます御言葉を学んで主の啓示を待ち望みましょう。大切なことなら、主が分かるように解き明かしてくださいます。
ただ、このややこしい話をあえてしたのは、私の感じた「矛盾」を皆さんも感じるのではないだろうかと思ったからです。
定説とされていることに「疑問」を感じることは悪いことではありません。それを頭ごなしに「否定」するのは良くないですが、すべてを呑み込む必要はありません。
「疑問」を感じたなら調べればいいのです。自分で聖書を読んで、御言葉は実際に何と言っているのか確かめるべきです。
ベレアの人々は、パウロとシラスの話を熱心に聞きました。それは、素直に、非常に熱心に聞きました。しかし、鵜吞みにはしませんでした。
「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のです。彼らの信仰は、グングンと成長したことでしょう。
「自分で調べる」ことが大切なのです。「信仰」は個人的なものです。誰かの教えをそのまま受け入れるのではなく「自分自身のもの」にすることが大切なのです。
もちろん調べた知識をひけらかしてはなりません。私たちには、もらったものでない知識はありません。それに知識もいつかはすたれます。誇るべきものではないのです。
私たちは「主よ、私に大切なことを教えてください」と願い求めながら学びを進めていきましょう。
もう一本の角について
さて、第四の獣の特徴を見てみましょう。
大きな特徴は「もう一本の角」と「大言壮語」です。
「もう一本の角」が出て来たとダニエルは言います。この「もう一本の角」は「10本の角」の後から出てくるのです。
「もう一本の角」は、先の王たちより「後から」現れて、「10人」のうちの「3人」を打ち倒します。
「そのために三本の角が抜け落ちた」とはそのことです。
つまり「10人の王」たちの方が「古い」のですね。これは、注目に値します。どういう意味なのか考えてみる必要があります。
さて「もう一本の角」は、先の王たちとは、異なっていました。
その角には「目」があり「大言壮語する口」がありました。想像すると、恐ろしく不気味ですね。
「私が見ていると」とは、「注意深く見ていると」という意味です。
ダニエルは「もう一本の角」を注意深く見ていました。凝視していたのです。注意を引き付ける特別なものがあったのでしょう。
その角は、ほかの角よりも大きく見えました。これは、大きく見えただけで実際は他の角と同じぐらいだったのか、それとも、本当に大きかったのかは分かりません。
ただ「もう一本の角」は強かったのです。戦う相手は「聖徒」です。そして角が聖徒に打ち勝つのです。
「もう一本の角」には「大言壮語する口」があります。
この角は「いと高き方に逆らうことばを吐き」ます。そして「いと高き方の聖徒を悩ます」のです。
この角は「時と法則を変えようと」します。
終わりのとき、イスラエルの神殿は回復しています。それに伴い、律法の規定による「いけにえの制度」も回復しています。イスラエルの祭りも大々的に行われるのだと思います。
この角は、その制度を変えようとします。祭りを廃止します。そして、おそらく別の日を自分のために制定するのでしょう。神殿に自分の像を置き、偶像礼拝を強要すると思われます。
それは、その昔、ヤロブアムがしたようなことです。
「もう一本の角」は、イスラエルの律法だけではなく、創造主である全能の神が定めた「季節」「時間のルール」なども変えようとするのかもしれません。自分には「できないことがない」と思い上がり、神の定められた制度にことごとく反逆するのではないかと思います。
「もう一本の角」は、偉大な創造主に対抗するのです。自分が「神」となるつもりだからです。
聖徒たちは「一時と二時と半時の間、彼の手に委ねられ」ます。
「一時」とは「1年」のことです。「二時」は「2年」です。そして「半時」は「半年」のことです。
アラム語で「時」は「年」と理解されるので、これは「三年半」のことと理解してよいのです。
福音に生きる 油井義昭著 一粒社
ダニエル書7章は「アラム語」で記されています。(8章からはヘブル語です)
聖徒たちが「もう一本の角」に苦しめられるのは「三年半」の間です。「もう一本の角」は、自分勝手に暴れまわりますが、その期間は定められているのです。
黙示録との類似点
使徒ヨハネが見た「海から上って来た獣」について見てみましょう。
この獣は「大言壮語して」神を冒瀆します。不法の人の特徴は「大言壮語」であることは間違いありません。大きなことを語る口があるのです。平気で「冒涜的」なことを言う人が「反キリスト」なのです。
「冒涜」する人だからと言って「大声でうるさくわめき散らす言葉遣いの悪い人」ではないかもしれません。彼は「神を冒涜する」のです。神に対して敬意を払わないのです。恐らく、自由の名のもとに「神の秩序」を破壊するのだろうと思います。創造主を「全否定」し、神の道徳を嘲笑うのだと思います。世界は「良くなる」ように見えて「退廃」します。
そして、獣の活動期間は「42か月」です。つまり「三年半」です。
ダニエルが見た「もう一本の角」は、使徒ヨハネが見た「獣」と同じ人物を表していることは間違いありません。
ダニエルに啓示された「おおまかな世界のあらすじ」を、使徒ヨハネは黙示録において「詳しく」啓示されたのです。ゆえに、この二つの書物は一緒に学ぶと、いっそう明確に分かるのです。
いのちの書に名前が記されている者として
「三年半」とは、患難時代の後半の時期のことでしょう。「もう一本の角」は、その間に冒瀆の限りを尽くします。
聖書は言います。
その冒涜者を人々は「拝むようになる」のです。
獣を拝むようになる人とは「世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が記されていない者」です。
大切なことは「子羊のいのちの書にその名が記されているかどうか」なのです。それがすべてを決めるのです。
イエス様は言われました。
「天に名前が書き記されている」ことは、大いに喜ぶべきことです。そして、何よりも重要なことなのです。
私たちは「大患難時代」を通らないことを喜ぶべきではありません。喜ぶべきは「天に名前が書き記されていること」です。
とは言え、正直に言うと私は「大患難時代」に置いて行かれないことを少しほっとしています。学べば学ぶほど、自分には耐えられないのではないかと思うからです。
しかし、いつの時代に生かされていたとしても、そこで「耐え忍んで生きる」ことは聖徒の絶対条件なのです。「天に名前が記されている」ことを喜びながら、ただイエス様だけを見つめて歩むべきなのです。
大患難期の聖徒たちには「忍耐と信仰」が必要です。彼らは、耐え忍び、主の日を待ち望まなければなりません。捕らえられる者もいるでしょう。いのちを奪われる者もいるでしょう。それらの出来事を目の前にしながら残された者は「忍耐と信仰」を失わずに天を見上げて生きなければなりません。
愛する兄弟姉妹。
私は、大患難時代に自分は地上にいないと信じています。いのちが尽きて召されているか、携挙されているかのどちらかであると信じています。
しかし、どうか覚えてください。
これは、私たちにも関係のある事なのです。
私たちの前を走った信仰の偉人たちは、私たちを抜きにしては「完全な者」とはされません。
同じように、私たちが天に先に召されたとしても「大患難」を通って来る人々と合流するまでは「完全な者」とはされないのです。
守られるのは忍耐している人です
私たちは「大患難」を経験しないでしょう。そう信じています。しかし、残念ながら「全員」が上げられるのではありません。
「全世界に来ようとしている試練の時」に守られるのは誰でしょう。
イエス様は言われます。
「あなたが忍耐についてわたしのことばを守ったので」と。
つまり「忍耐についてのことばを守る」信仰者が守られるのです。
私たちは確かに「終わりの時代」を生かされています。
終わりの時代を生き抜くために必要なことは「忍耐」です。それは「患難時代の聖徒」と同じなのです。
「終わりの時代のしるし」は顕著です。聖書を知らない人でさえ、最近の大災害や狂暴化する犯罪行為を見て「世も末だ、世の終わりだ」と言っています。
神の聖徒である私たちは、もっと危機感を覚えなければならないでしょう。
預言者ハバククが「いつまでですか」と叫んだように、私たちも「主よ、いつまでですか」と叫びたくなることがあります。
見えるところが、いくら叫んでも何も変わらにないように思えることがあります。目当てを見失って立っているのが辛くなることもあります。世の中に流されてしまった方が楽に生きられると思うこともあるでしょう。
しかし、私たちは「忍耐」せねばなりません。
主は言われます。
「わたしの義人は信仰によって生きる」と。
愛する兄弟姉妹。
堅く信仰に立ちましょう。一緒に忍耐しながら待ち望みましょう。
大患難が必ず終わるように、私たちの忍耐も必ず終わる日が来ます。聖徒が打ち負かされることは終わり、「もう一本の角」は裁かれるのです。
聖徒には「国と、主権と、天下の国々の権威」が与えられます。へりくだって、主に従う者は、最終的に高くされるのです。
さて、ダニエル7章の話はここで終わりです。
ダニエルの顔色が変わるのもうなずけます。私も、何回読んでも何とも言えない気分になります。
しかし、ダニエルは「私はこのことを心に留めた」と言います。
私たちも心に留めましょう。意味が分からなくても、心に留めるのです。
「終わりの日が近い」などという話は、あまり楽しい話ではないかもしれません。しかし、私たちは心に留めなければならないのです。
今は、終わりの時代です。主の民の「忍耐」の時です。
私たちはイエス様を見続けましょう。そして、イエス様のように耐え忍びましょう。
イエス様は「苦しみ」を見つめて耐え忍ばれたのではありません。目の前に置かれた「喜び」のために耐え忍ばれたのです。
苦しみは確かにあります。患難は来ます。しかし「喜び」が置かれていることも事実なのです。
「信仰」を「完成」された方を見ましょう。私たちは、イエス様から目を離さず、そのようにして最後まで走りぬきましょう。
今は、終わりの時代です。しかし、その先には「新しい世界」が用意されているのです。
祝福を祈ります。