【ダニエル7章】その① 地上の歴史のあらすじを知ります!

鹿の角

ダニエル7:14
この方に、主権と栄誉と国が与えられ、主民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

まずは、預言の解釈について少し話します

ダニエル書7章の学びに入ります。7章は二回に分けて学びます。今回は7章18節までです。

ダニエル7章には、地上の出来事の「あらすじ」が記されています。

聖霊様は、実に簡単に地上の歴史をまとめられました。ダニエルは、これから起こることを、ザッと見せられたのです。

私たちも、ザッと理解しましょう(笑)

聖書の預言は、当然のことながら「実現するまで全貌は分からない」のです。

イエス様の受難についても、旧約聖書は多くを記していますが、実際に起こらなければ、それを完全に理解することはできませんでした。

イザヤ53:8
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。

「だれが思ったことか」とイザヤは言います。

誰も思わなかったのです。誰もイエス様が「民の背きのゆえに打たれ」たのだとは考えませんでした。

私たちは、イエス様の再臨や終末のことについて、熱心に調べたり学んだりしますが、受難の預言と同じように、実際に起こらなければ「すべてのことを完全に」分かることはできないでしょう。

ですから、預言を学ぶときには「すべてのことを完全に」分かろうとしないことです。

主が、私たちに「時に応じて」教えてくださることだけに心を留めればよいのです。

分からないことを無理やり解釈する必要はありません。分からないことは分からないままでよいのです。主が、分かるようにしてくださるまで待てばよいのです。

もし「私にはすべてが分かる」「全部、解き明かせた」「私だけが真理を持っている」「誰も知らない奥義を教えてあげる」などと言う人がいたならば、とりあえず「ああ、そうなんですね」とニコニコ笑って言いつつ、後ずさりして、それから、一目散に逃げなさい(笑)

Ⅱペテロ1:20
ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

私たちも、そのことを「心得て」預言の学びを続けましょう。

ダニエルに与えられた夢と幻

ダニエル書6章で、金の頭の国であったバビロンは滅びます。

しかし、7章は少し時を戻さなければなりません。

ダニエル7:1
バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、ある夢と、頭に浮かぶ幻を見た。それからその夢を書き記し、事の次第を述べた。

7章の夢と幻が与えられた時、バビロンはまだ滅びていませんでした。

あの「目方の足りない」と言われた王であるベルシャツァルが統治を始めた年、ダニエルに最初の夢と幻が与えられました。(記されている限りにおいてということです)

ダニエル7:15
私ダニエルの心は私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は私をおびえさせた。

ダニエルに与えられた幻は恐ろしいものであったようです。それはダニエルを「悩ませ、おびえさせる」ような内容であったのです。

ダニエルが「おびえた」ほどの夢と幻とはどのようなものであったのでしょう。

ダニエル7:2
ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、なんと、天の四方の風が大海を掻き立てていた。

聖書では「海」は、「世界」を象徴していると言われています。

黙示録で御使いが「大淫婦が座している大水」について説明している箇所があります。

黙示録17:15
また、御使いは私に言った。「あなたが見た水、淫婦が座しているところは、もろもろの国民、群衆、国民、言語です。

ダニエルが見た「大海」も「もろもろの国民、群衆、国民、言語」であると解釈しても間違いではないでしょう。

世界という大海を「天の四方の風」が掻き立てているのをダニエルは見ます。

ダニエル7:3
すると、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。

天の風に掻き立てられて、海は激しく荒れています。そして、その荒れた海から「四頭の獣」が上がって来たのをダニエルは見ます。

「獣」はいつも「海」から上がってきます。つまり、世界が「獣」を生み出していると言えるでしょう。

黙示録13:1a
また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。

使徒ヨハネも「海」から獣が上って来るのを見ています。この獣は、ダニエルが見た「4頭目」の獣と同じであると考えられます。

四頭の獣の幻と巨大な像

ダニエル7:16
私は、傍らに立っていた者たちの一人に近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は私に答えて、そのことの意味を告げてくれた。

ダニエルは、自分を「悩ませ、おびえさせた」幻について御使いに尋ねます。

すると御使いはダニエルに答えてくれたのです。

ダニエル7:17~18
「これらの四頭の大きな獣は、地から出る四人の王である。しかし、いと高き方の聖徒たちが国を受け継ぎ、その国を永遠に、世々限りなく保つ。」

御使いが答えてくれたことはとても嬉しいですが、なんとも短い説明ですね。得てして御使いは無口なようです(笑)

しかし、この説明で、ダニエルが見た四頭の獣が「地から出る四人の王」であることは分かりました。

この「四頭の獣」が海から上って来る「世界帝国」を表しているのです。

私たちは、ダニエル2章で「四つの世界帝国」について学びました。

ネブカドネツァル王が見た「巨大な像の夢」です。

ダニエル2:32~33
その像は、頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。

ネブカドネツァル王は、夢の中で「異常な輝きを放つ巨大な像」を見ました。

この「異常な輝きを放つ巨大な像」は、人間の目から見た「巨大帝国の姿」であり、「四頭の獣」は、神の目から見た「世界帝国の姿」だと言われます。

2章でネブカデネザルを通して与えられたビジョンは、この世から見た未来の人間史でしたが、この章では、同じ人間史が神の人、ダニエルを通して神の観点から語られたのでした。
一人で学べるダニエル書 フルダ・K・伊藤著 文芸社

人の視点から見ると「世界帝国とその権力」は、異様な輝きを放っています。人々は、「権力」に恐れを抱きつつも、その輝きに魅せられて、あらゆる仕方でそれを手に入れようとします。

「巨大な像」は、人々を圧倒すると同時に虜にもするのです。

一方、神様の目から見た「世界帝国の姿」は「獣」です。それは、荒れ狂う海から上がって来る「獣」です。

バビロンも、ペルシャも、ギリシャも、ローマも、反キリストの帝国であっても、滅び失せる獣でしかないのです。

詩篇49:20
人は栄華のうちにあっても、悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。

主をおのれの神としない国と権力者は「滅び失せる獣に等しい」のです。主に逆らい続けるなら、どんなに獰猛で恐ろしく見える獣であっても「滅び失せる」のです。

ネブカドネツァル王の見た「巨大な像」とダニエルの見た「四頭の獣」は、違う視点から見た同じ「世界帝国の姿」です。

復習しておきましょう。

純金の頭バビロン
銀の胸と両腕メディア・ペルシャ
青銅の腹とももギリシャ
鉄のすねローマ
巨大な像に見る世界帝国

四頭の獣について

ダニエル7:4
第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から身を起こされて人間のように二本の足で立ち、人間の心が与えられた。

「金の頭」であったバビロンのネブカドネツァル王は、ダニエルの幻においては「鷲の翼をつけた獅子のような獣」です。

その翼が抜き取られ「人間の心」が与え与えられるとは、まさしく4章でネブカドネツァル王が経験したことを表していると思えます。

ダニエル7:5
すると見よ。熊に似た別の獣が現れた。その獣は横向きに寝ていて、その口の牙の間には三本の肋骨があった。すると、それに「起き上がって、多くの肉を食らえ」との声がかかった。

「金の頭」の次は「銀の胸と両腕」でした。

「銀の胸と両腕」は「熊に似た獣」と同じです。つまり「メディアとペルシャ」代表的な王として「キュロス」を表します。

その熊は「横向き」に寝ています。これは「両腕の比重の違い」を表していると言われます。つまり、片方の国(ペルシャ)がもう一方の国(メディア)より優勢になるということです。

「口の牙の間の三本の肋骨」は、彼らが打ち負かした国「バビロン、エジプト、リディア」を表すと言われます。しかし、他にも色々な説があるので、はっきりしたことは分かりません。

「起き上がって、多くの肉を食らえ」との言葉どおり、ペルシャは、どんどん領土を広げます。

ダニエル7:6
その後、見ていると、なんと豹のような別の獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。

三番目の獣は「豹のような獣」です。巨大な像の「青銅の腹ともも」です。つまり「ギリシャ」を表します。

「豹のような獣」には「四つの翼」がありました。これは、おそらく異常なスピードで全土を侵略していったアレクサンドロス大王を表すのでしょう。

豹は、もともと素早い獣ですが、それに「四つの翼」がついているので「尋常ではない素早さ」「地に足がついてないように見える、飛ぶような速さ」を表しているのだと思います。

アレクサンドロス大王の死後、ギリシャは四分割されます。つまり「四つの頭」である「四人の将軍」たちがそれぞれ後継者となり主権を与えられます。

2頭目の獣(メド・ペルシャ)と3頭目の獣(ギリシャ)については、ダニエル8章にも別の姿で登場しますから、そのときに詳しく学びましょう。

それにしても、ダニエル書の預言の正確性には驚かされます。

ここまでは、もうすでに興った国のことですから、私たちは歴史に照らし合わせながら、預言の正確性を確認することができます。

第四の獣については、これがややこしいですね(笑)

詳しくは、次回に学びますので、今回は、さらっと、どのような国であるのかを見たいと思います。

第四の獣について

ダニエル7:8
その後また夜の幻を見ていると、なんと、第四の獣が現れた。それは恐ろしくて不気味で、非常に強かった。大きな鉄の牙を持っていて、食らってはかみ砕き、その残りを足で踏みつけていた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。

さて、巨大な像を照らし合わせるならば、順番的に「第四の獣」は「鉄のすねと鉄と粘土の足」に相当します。

つまり「第四の国」は「ローマ帝国」を表します。

「これは前に現れたすべての獣と異なり」とダニエルは言っています。

ダニエルは、このような「獣」を見たことがないと思ったのです。実際に「獅子のような」「熊のような」「豹のような」と他の国は、みな、ダニエルが「知っている」獣に例えることができました。

しかし、第四の獣については、何に例えればよいのか分からなかったのです。

ただその獣は「恐ろしく、不気味」でした。そして「非常に強く」「食らってはかみ砕き、その残りを足で踏みつけていた」のです。

とても残虐で容赦のない獣です。決して誰をも逃さない執拗に攻撃する獣です。かみ砕けなかったものは、足で踏みつけるのです。徹底的に滅ぼそうと心に決めているのです。

「十本の角」は、「足の指の10本」に相当すると思われます。

「十本の角」をダニエルは、凝視します。特別に注意を惹くものがあったのでしょう。

ダニエル7:8
私がその角を注意深く見ていると、なんと、その間から、もう一本の小さな角が出て来て、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には人間の目のような目があり、大言壮語する口があった。

「もう一本の小さな角」は「反キリスト」を表すと思われます。黙示録13章に出てくる「海から上がって来た獣」と同じだと考えてよいでしょう。

この「小さな角」は、あまり具体的に想像したくないほど「不気味」です。角をよく見たら「人間の目」があったなんて、恐ろしい描写が記されています。

この「小さな角」は「見ることができる」ということですね。

そして、この「小さな角」は「大言壮語」する口を持っていました。つまり「偉そうなことを言う」のです。

今回は、角については、ここまで理解できれば良しとします。次回、角についての御使いの説明を一緒に学びます。

さてダニエルは、続けて幻を見ます。

すると、場面は一転します。

御座の幻

ダニエルの視点は、地上の不気味な獣から「天上の栄光」へと移されます。

ここからの幻は、ヨハネの黙示録と照らし合わせて読むと理解しやすいでしょう。

ダニエル7:9
私が見ていると、やがていくつかの御座が備えられ、「年を経た方」が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、

年を経た方

ダニエルの見た「年を経た方」は、使徒ヨハネが見た「天の御座に着いておられる方」です。

黙示録4:2
たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ、天に御座があり、その御座に着いておられる方がおられた。

「年を経た方」とは、永遠の昔から生きておられる、すべての始まりである神を表しているのだと思います。この方は、最初から最後までをすべて見て来られた方です。

ローマ8:36
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

この世の始まりから、多くの年月が流れました。この方は、すべての始まりであり、すべてがこの方に至るのです。

いくつかの御座

ダニエルの見た「いくつかの御座」は使徒ヨハネの見た「二十四の座」でないかと思われます。

黙示録4:4
また、御座の周りのは二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。

ダニエルには「二十四」という数は、あまり重要でなかったのかもしれません。すると、この「二十四」という数は、黙示録を与えられた新約時代の聖徒にとって、何らかの意味を持つ数字なのかもしれませんね。それは、また黙示録の学びの時に考えてみたいと思います。

地上にさばきが始まります

ダニエル7:10
火の流れがこの方から出ていた。
幾千もの者がこの方に仕え、
幾万もの者がその前に立っていた。
さばきが始まり、
いくつかの文書が開かれた。

この「さばき」は、黙示録20章の「白い御座のさばき」ではありません。これは、千年王国の前の出来事なので混同してはなりません。

もう少しヨハネの黙示録と照らし合わせながら見ていきます。

幾千もの者、幾万もの者

黙示録5:11
また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。

使徒ヨハネは「御座の周り」で「多くの御使いたちの声を聞いた」と言っています。

ヨハネは、御使いたちの姿を見たわけではないようです。「万の数万倍、千の数千倍」の御使いの声を聞いたのです。

ダニエルは「幾千もの者がこの方に仕え、幾万もの者がその前に立っていた」と言っています。英語(NIV)の聖書で読むと「万の万倍」と書かれています。

ダニエルが見たのは「御使い」であったと思われます。

おそらく「天の御座」の周りには、幾千、幾万のその何万倍もの数の御使いが仕えているのです。ちょっと、数字に弱い私には計算できませんが、万の万倍とはどのくらいの数なのでしょう?

天の御座は、私たちの思いをはるかに超えるものであるのは間違いありません。

さばきが始まり、いくつかの文書が開かれた

使徒ヨハネが黙示録5章で見た「天の御座」の出来事は、まだ「封印」が解かれる前のことでした。つまり、地上における「最後のさばき」すなわち「大患難」は、まだ始まっていませんでした。

おそらく、ダニエルが見た「いくつかの文書」とは「七つの封印の巻物」が開かれていくことを表していると考えられます。絶対とは言い切れませんが、その可能性は高いでしょう。

たとえ、そうでないとしてもダニエルの言う「さばきが始まった」が「白い御座のさばき」ではないことは間違いないと思います。つまり「いくつかの文書」は「いのちの書」ではないと思うと言うことです。

なぜなら、その続きでダニエルがこう言っているからです。

ダニエル7:11
そのとき、あの角が大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた。

「大言壮語する角」とは「反キリスト」つまり「海から上がってきたの獣」のことです。

黙示録は「獣の最後」をこう記しています。

黙示録19:20
しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。

「生きたまま」と「殺され」の違いがあることは確かですが、ダニエルも使徒ヨハネも「角(獣)」が火の池に投げ込まれるのを見ました。

ダニエルには殺されたように見えたのでしょう。使徒ヨハネは「生きている」と確信する何かを見たのでしょう。この違いがなぜ生じたのかは、原語で読めばわかるのかもしれません。またいずれ分かる日が来るかもしれませんし、生かされている間に分からなければ、天の御国で二人にあったときに確かめたいと思います。

肝心なことは、この出来事が「千年王国」の前であるということです。

「獣」と「偽預言者」が捕らえられ、火の池に投げ込まれた後、サタンは千年の間、縛られます。

黙示録20:2~3
彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕えて、これを千年の間縛り、千年が終わるまで、これ以上、諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。

「獣」つまり「角」が火の池に投げ込まれるのは「竜」つまり「サタン」が縛られる前のことです。千年王国の間「地上」に「サタン」はいません。

ダニエルの言う「さばきが始まり」とは、「地上における最後のさばき」つまり「患難時代の始まり」ということです。「いくつかの文書」が開かれると「さばき」が開始されるのです。

神の憤りが地に注がれる「さばき」が始まります。その恐ろしさは黙示録を読むと明らかです。

ダニエルは、その「さばき」の詳細を記してはいません。ただ「大言壮語する角」が最後には滅びるのだということは、はっきりと記されています。

残りの獣とは

ダニエル7:12
残りの獣は主権を奪われたが、定まった時期と季節まで、そのいのちは延ばされた。

神の憤りが地に注がれる「大患難」が終わった後、「角(獣)」は滅びます。しかし「残りの獣」は主権は奪われますが「いのちは延ばされ」ます。

「残りの獣」については、おもに二つの説があります。

一つ目は「残りの獣」とは「竜」つまり「サタン」のことであるとする説です。

サタンは「千年の間縛られ」「底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印を」されます。そして「その後、竜はしばらくの間、解き放たれる」ことになります。

つまり「主権を奪われたが、定まった時期と季節まで、そのいのちは延ばされた」という解釈です。

二つ目の説は「残りの獣」とは「獅子、熊、豹」のことであるとする説です。

獅子(バビロン)は、現在のイラクあたりのことです。熊(ペルシャ)は、現在はイランと呼ばれています。そして、豹(ギリシャ)は、今もギリシャです。

初めの帝国はすでにさばかれ、その権力は取り除かれているが、彼らのいのちは神によって取って置かれている。
ダニエル書 H・S・ペストリー著 伝道出版社

これらの国は、もはや「世界帝国」と呼ばれるような力はありません。しかし、今もなお存続しています。主によって「いのちが延ばされている」という解釈です。

聖書全体から判断すれば、一つ目の説なのかなと思います。私は、ずっと、そのようにメッセージしていました。

けれど、ダニエル書の文脈からだと二つ目の説が有力なのかなとも思います。

とても面白いですね。どうぞ、皆さんも黙示録やダニエル書や他の聖書箇所も読んで、ぜひ考えてみてください。

これは「あらすじ」です

ダニエル7:13~14
私がまた夜の幻を見ていると、
見よ。人のこのような方が天の雲とともに来られた。その方は「年を経た方」のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

私たちのイエス様は「天の雲とともに来られ」「主権と栄誉と国が与えられ」ます。

すべての預言が成就します。

イザヤ2:2
終わりの日に
主の家の山々は頂に堅く立ち、
もろもろの丘より高くそびえ立つ。
そこにすべての国々が流れて来る。

すべての国の人々が、主イエスに仕えるようになります。みな、エルサレムに御言葉を求めてやって来ます。

イエス様は「王の王」「主の主」として統べ治められます。

これが、地上における神の「あらすじ」なのです。

ご計画の詳細は語られていませんが「最終的にこうなる」ということは、はっきりと記されています。

私たちはこの「あらすじ」をしっかりと覚えておかなければなりません。

確かに「海から獣が上って」来ます。すでに「三頭」は暴れまわりました。「四頭目」も、すでに出現しましたが、まだ「ローマ帝国」の力は密かに続いていると私は思っています。

そして、再び、今までの獣を足したような「不気味な」獣として現れます。世の中は「大荒れ」して人々は恐れたり怯えたりするでしょう。また、空しい「平安」に騙されたりするでしょう。

ダニエル7章の「夢と幻」は、とても重要です。この「夢と幻」は、ダニエル書だけでなく「聖書全体」を照らすものだと私は思います。

七章がダニエル書全体の中心であり、聖書全体における頂点の一つであると呼ばれるのもうなずけます。七章が語る真理を確信するならば、私たちは歴史をひも解く鍵を、手にすることになります。
福音に生きる 油井義昭著 一粒社

ダニエル書7章には、異邦人の時から、千年王国に至るまでの流れが、はっきりと示されています。

歴史において、恐ろしい獣が暴れまわるのを私たちは見ます。今も、世界が荒れていて、これからどうなるのだろうかと不安になることもあるでしょう。

私は、聖書が預言の書であることを心から感謝しています。

私たちは「どうなるのか分からない」という不安におびえる必要はありません。

私たちは「どうなるか」を知ることができます。私たちは、最終的に「人の子のような方」が「主権と栄誉と国」を与えられることを知っています。ですから「どうなるのか」と不安におびえる必要はないのです。

主イエスは、新天新地の前に「千年王国」をこの地上に確立されます。この地を文字通り治められます。イスラエルに約束された聖書の預言は、すべて実現するのです。

私たちは、神のご計画を知っています。すべては分からなくても「あらすじ」は知っているのです。

私たちにとって「神が地をさばかれる」というのは予期せぬことではなく「前もって語られたこと」です。

ですから聖書は言うのです。

Ⅱペテロ1:19
また私たちは、さらに確かな預言のことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めていると良いのです。

私たちは、どんな時代を歩くことになったとしても「預言のことば」に目を留めて歩きます。

主のみことばを一心に見つめて、御霊に導かれて歩みましょう。

あなたが「確かな預言のことば」に目を留めるなら、あなたは「光の中」を歩むことができます。

そして、あなたが「光の中」を歩むなら、周囲の暗闇の中で恐れている人々を導くことができるでしょう。

まず「預言のことば」に目を留めることです。それは決して「難解」で「意味不明」な「恐ろしい」ことではありません。

それは、私たちの「暗い所を照らすともしび」です。そしてそれこそ「確かな」ものなのです。

祝福を祈ります。