ダニエル6:23
王は大いに喜び、ダニエルをその穴から引き上げるように命じた。ダニエルは穴から引き上げられたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神を信頼していたからである。
敵の陰謀を知っていたにも関わらず
前回は、ダニエルが敵の陰謀にも屈せず、いつものように祈りをささげていたということを学びました。
今回は、その続きからですが少しだけ復習します。
ダニエルの敵たちは、なんとかダニエルを失脚させようとしていました。必死で「怠慢」や「欠点」を見つけだそうとしましたが無駄でした。ダニエルは、常に「神に仕える心」をもって忠実に職務を全うしていたからです。
敵たちは、さぞや悔しかっただろうと思います。
そして言います。
「彼の神の律法のことで見つけるしかない」
彼らは、ダニエルが「いつも仕えている神」を利用することを思いついたのです。
ダニエルが「神に仕える」姿勢を崩さない人であることは周知の事実だったようです。誰もが「ダニエルの神」の存在を知っていました。
そして、ダレイオス王に禁令を制定させたのです。
それは「今から30日間、ダレイオス王以外に祈願する者は獅子の穴に投げ込まれる」という禁令でした。
ダニエルは、その文書に王の署名がされたことを知っていました。
メディアとペルシャの法律は「絶対」です。一度、制定されれば「王」であっても取り消すことはできません。もちろん、ダニエルは「ダレイオス王が文書に署名した」ことが何を意味するのかよく分かっていました。
それでも、ダニエルの態度は何一つ変わらなかったのです。
さて、前回はここまで学びました。今回は、この続きから学びます。
忠実な者ほど揺さぶられます
敵はダニエルが罠にかかったことを知りました。
「見つけた」というより「見張っていた」ということでしょう。彼らは、ダニエルがこうも簡単に罠にかかってくれると期待していたでしょうか。
期待していたと私は思います。
敵は、ダニエルのことを熟知しているのです。「彼の神」にダニエルが祈らないことなどないと確信していたでしょう。ダニエルの忠実さが一貫していたことの証です。
敵はこの「忠実さ」に付け込んだのです。
終わりの時が近づくにつれ、ますますサタンは聖徒の「忠実さ」を試すようになるでしょう。サタンは、もともと神に忠実な者を揺さぶるのが好きなのです。
ヨブの苦難を思い出してください。
サタンは、ヨブに目を留めました。
その理由は、まず第一にヨブが「神のしもべ」であったからです。サタンが目を留めて攻撃してくるのは「神のしもべ」に対してです。
そして、その中でも特にヨブに目を留めた理由は、ヨブが「誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」だったからです。
ヨブは、神ご自身が、このような人は「地上には一人もいない」と認めておられるほど誠実な人でした。
確かに聖書は真実です。聖徒の「敬虔」「忠実」「誠実」は、サタンの揺さぶりの対象にされることは否めません。
しかし、だからと言って、私たちは「忠実」を捨てるわけにはいかないでしょう。それは、主を否むことです。
私たちは、ダニエルのように何があっても「以前からしていたように」つまり「いつものように」生きなければなりません。
敵は勝ち誇ります
ダニエルが主に祈っていたことは、早速、ダレイオス王に報告されました。
「日に三度」と彼らは言います。徹底的な証拠とするために、一日中、見張っていたのかもしれません。
これを聞いてダレイオス王は、自分が謀られたことを知りました。部下たちが「あなた以外に祈願する者がいないように」という言葉は本心からではないことを思い知ります。それは口先だけの言葉で、すべて信頼する部下ダニエルを滅ぼすための企みであったのです。
ダレイオス王は、自分が利用されたことに気が付きました。そして、なんとかダニエルを救おうと必死で考えます。
虚栄心をくすぐられ、いい気分になっている場合ではなかったと気づいた時には遅かったのです。どれだけ憂いても、心配しても、どうにもならないのです。もはや、打つ手は残っていませんでした。
勝ち誇った顔で王の前に立つ大臣たちの姿が目に浮かぶようです。
ダレイオス王は、ダニエルを獅子の穴に投げ込むしかありませんでした。
ダレイオスの言葉には、彼の願いが本当に込められていたと思います。王が弱々しく語る言葉を聞いて、ダニエルの敵たちは、せせら笑ったことでしょう。
彼らは完全に勝利を確信しました。これで邪魔者は消えたのです。もう二度と、ダニエルの監視のもとで働く必要はないのです。「次の総理大臣は、俺か、お前か」と彼らは祝杯をあげながら言い合ったことでしょう。
終わりの時、人々は喜びます
終わりの時にも、これと同じ光景が繰り広げられます。終わりの時、主は「二人の証人」を地上に遣わされます。
「二人の証人」は、真理のことば、主からのことばを預言します。地上の人々は、彼らの存在を喜びません。「二人の証人」のことを疎ましく感じます。それは、彼らが「耳に心地よいことば」を語らないからです。それどころか「災害で地を打つ権威」を行使し、地上の人々は苦しむことになるからです。
これは、モーセとエリヤを思い起こさせます。終わりの時には、あの二人のような力ある預言者が起こされるのでしょう。
エリヤの祈りは天を閉じました。地に雨が降らないので、人々は渇き苦しみます。それは、人々の偶像礼拝の罪のゆえのさばきでした。しかし、苦しみにあっている人々はそうとは思いません。実際に、エリヤに会ったとき、アハブ王は言います。
雨を降らせず、わざわいをもたらしているのは、エリヤだと責めているのです。
同じように、終わりの時、人々は「二人の証人」を「わざわいを起こす者」であるとして憎みます。
人々から憎まれていた「二人の証人」を殺した「獣」は地上の英雄になるでしょう。人々は、この日を記念して贈り物を贈り合うほど喜びます。
「獣」の全面勝利に見えます。誰もが「喜び祝って」います。真のしもべである「二人の証人」は、まるで悪者かのように扱われて、敗北者になったように見えます。
しかし、神の奇跡が起こります。
「いのちの息が神から出て」彼らは、よみがえるのです。「喜び祝っていた」人々の顔が「恐怖」に引きつります。
ダニエルを「獅子の穴に投げ入れた」人々も、完全な勝利を確信していました。しかし、彼らの顔も恐怖に引きつることになるのです。
ダレイオス王は、心からダニエルを心配していました。王は、一睡もせずに夜を明かします。日が昇るとすぐ、王は「獅子の穴」に走って行きます。
ダレイオス王が信仰を持って、獅子の穴に語りかけたのかどうかは分かりません。
しかし、主は、ダレイオス王が語りかける前から、もうすでに奇跡を起こしておられました。ダニエルの声が獅子の穴から聞こえます。
ダニエルは無事でした。ダニエルの声を聞いたダレイオス王は飛び上がらんばかりに喜んだでしょう。
ダニエルは穴から引き上げられました。そして、何の傷もおっていないことが確認されました。主は、ご自分に忠実なしもべを完全に守られたのです。
この知らせを聞いて、ダニエルの敵たちは青ざめたことでしょう。生ける神のしもべに手を出したことを後悔したでしょうか。彼らの勝利は一日で終わります。それと同時に、彼らの命も終わるのです。
神の守りなしに獅子の穴に落ちるのは恐ろしいことです。反対に、神の守りの御手があるならば、どのような場所でも安全であるということが分かります。
敵は、自分が設けた罠によって、自分自身に滅びを招きました。
死に至るまで忠実であれ
ダニエルは、獅子の穴を恐れませんでした。彼は「死に至るまで」忠実でした。実際に彼は「死を覚悟した」でしょう。それでも、祈りをやめるという選択はしませんでした。
周囲のダニエルに好意を寄せる人たちは言ったかもしれません。
「たかが30日じゃないか。その後で、またいくらでも祈ればいいじゃないか」
「おまえの神は、そんなに心が狭いのか、神も分かってくれるはずだよ」
確かに、彼らの言い分は「その通り」であるでしょう。法令に背いてまで「ひざまずく」必要があるのでしょうか。心の中で祈りをささげていれば充分なのではないでしょうか。
終わりの時、聖徒はそのような悩みにぶつかるだろうと思います。終わりに近づいている今、そのような問題にさらされている聖徒は増えているかもしれません。
正直に申し上げて、私はこのことに対する答えを持っていません。あなたの問題に対して「絶対に隠れるな」とか「絶対に逃げるな」などと私は言いません。必ず「これを選択せよ」と言えるものを私は持っていないからです。
もちろん「偶像崇拝は避けなさい」という命令だけは「絶対」です。
それ以外の選択において、ただ一つ言うとすれば、常日頃「物と事」、「善か悪」ですべてを判断しているならば、いざというときに間違った選択をする可能性は高いだろうということです。
「災害」は「わざわい」であって、「災害を起こす者」は「悪者」だと判断するならば、終わりの日の「二人の証人」の死を喜ぶ人々と同じ過ちを犯すことになります。
イエス様は「死に至るまで忠実であれ」と言われました。
私たちは「忠実」であるべきです。そしてそれは「物と事」ではないし「善か悪」かを判断することでもありません。
イエス様は、迫害されたり、危機に陥ったりしたときの対処方法をあらかじめ教えてくださいました。
まず第一に「前もって心配するのはやめなさい」と言われました。
何が「正しいことか」「何が罪か」「どこまでなら大丈夫か」「どうすれば耐えられるか」そのようなことを前もって心配する必要はないのです。
ただ「そのときあなたがたに与えられることを話しなさい」と言われます。なぜなら「話すのはあなたがたではなく、聖霊」だからです。
いざというとき、どうすればいいのかは「聖霊」が教えてくださるのです。私たちはただ「聖霊に忠実」であればよいのです。
しかし、常日頃、自分の頭で「善か悪」かを判断して生きているとすれば、おそらく、いざというときに「聖霊の御声」に聞き従うことはできないでしょう。
なぜなら、聖霊様は私たちの思う「善か悪」によっては判断されないからです。
私たちの忠実は「いざ」というときに試されます。その「いざ」に備えるためには常日頃から「聖霊の御声に忠実」でなければならないのです。
私たちは、常日頃から「御霊の声」に慣れ親しむ必要があります。そうでなければ「いざ」というとき、それが本当に御霊の導きであるか迷うことになるでしょう。
「死に至るまで忠実である」ことは、日々の生活の中ですでに始まっているのです。
ですから勇気を出しなさい
ダニエルが獅子の穴に落とされた、その時、人々は「ダニエルの神も救えなかったな」と思ったかもしれません。誰しもが「終わったな」とつぶやいたことでしょう。
人々は「これで終わりだ」と思ったのです。
私たちは、願わくば「獅子の穴に投げ込まれる前」に奇跡が起こって欲しいと思います。なんとか獅子の穴を回避したいと考えます。獅子の穴に落ちれば「もう助かる見込みはない」と思うからです。
けれど、時々、主は「起こって欲しくないことが起こる」ことを許されます。
私たちは、そのような事態に陥ったとき「主は私を見捨てられた」と感じます。「なぜ、主は、私をこんな状態に置いておくのか」と思います。誰もが「あいつはもうダメだ」と自分のことを言っているのだろうなと考えます。自分は「もう終わったのだ」とあきらめてしまいます。
しかし「獅子の穴に落ちた」ことは、ダニエルにとって「終わり」ではありませんでした。
おそらく、御使いは、ダニエルが「獅子の穴に落ちる」よりも前に、その穴の中に遣わされていただろうと思います。
獅子は、とても獰猛でした。投げ込まれた人たちが「穴の底に到達する前に」ことごとくかみ砕いたのです。
もし前もって御使いが「獅子の口をふさいで」いなかったら、ダニエルも穴の底に落ちる途中でかみ砕かれていたでしょう。
やがて必ず来る「大患難」を、主の教会、本当の聖徒たちは経験しません。(私はそう信じています)
しかし、それとは別に「世にあって苦難がある」のは事実です。イエス様は言われました。
弟子たちが苦難の中を歩むことになるとイエス様はご存知でした。
苦難の中にいることは「終わり」なのではありません。苦難の中にいることは「見捨てられた」ことではありません。
私たちは、放り込まれたように感じる、その苦難の中で「神の奇跡」「神の救い」を経験するのです。
自分で「終わり」を決めてはなりません。
見える一切が「敗北」を告げたとしても、私たちは信仰によって見えないものに目を留めます。
目に見えるすべてのものが「終わり」を告げたとしても、不滅で目に見えない方が終わらせない限り、私たちには希望があります。
なぜなら、私たちの主は「わたしはすでに世に勝ちました」と言われたのです。
だから、勇気を出しなさい。
私たちは、苦難の中で「獅子の口をふさぐ御使い」を知るでしょう。それは投げ込まれなければ見ることの出来ないものなのです。
愛する兄弟姉妹。
私は、あなたに苦難を味わってほしいとは思いません。できるなら辛い思いをしてほしくないと思います。もし今、苦難の中にいるのなら、すぐにそこから出られるようにと思います。
けれど、同時に、その苦難の中で、あなたが常にともにおられる聖霊様を知ることができるように、切に切に願います。
苦難の中にいることは「敗北」でも「終わり」でもありません。
そこから「イエスのいのち」が現れるのを私たちは必ず見るからです。
私たちは、ただ「御霊に忠実に」歩みましょう。
どんな時でも、どんな状態であったとしても、私たちはただ「忠実」であれば良いのです。
目に見える「物と事」「善と悪」に振り回されてはなりません。それは、私たちを「みこころ」から遠ざけます。
見えない方を見るようにして忍び通しましょう。
苦難の中でこそ、主の光は輝きを増します。
私たちは、本当の「イエスのいのち」がどのようなものか知ることになるでしょう。
祝福を祈ります。