ダニエル12:10
多くの者は身を清めて白くし、そうして練られる。悪しき者どもは悪を行い、悪しき者どものだれも理解することがない。しかし、賢明な者たちは理解する。
聖なる民の力を打ち砕くことが終わるとき
さて、ダニエル書の学びも終わりです。
10章から始まった一連の幻も終わります。ダニエルは、最初の川を見ています。
二人の人が、川のこちら岸と向こう岸に別れて立っています。何らかの意味があるのかもしれませんが、よく分かりません。
文脈からすれば「二人のうちの一人」が質問したということですよね。
となると、川の両岸にいた二人とは別に「誰か」がいたということになります。
「川の水の上に亜麻布の衣を着た人」がいたのです。
「川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人」とは、ダニエル10章に登場した一人の人と同じ方でしょう。
「亜麻布の衣をまとった方」とは、おそらく受肉前の御子イエスであると思います。
「永遠に生きる方にかけて誓った」と書いてるので「御子」ではないという意見もあります。
どちらにしても、その方は言ったのです。
「それは一時と二時と半時である」
「この不思議なこと」が終わることは確かです。そして、それの期間が設けられていることも、また確かです。
「一時と二時と半時」とは「三年半」のことであると思います。
つまり「ダニエルの70週」の最後の1週の半分ということです。「患難時代の最後の半週」ということです。
そして、ここで「大患難の理由」が明らかにされます。
「聖なる民の力を打ち砕くことが終わるとき、これらすべてのことが成就する」
「一時と二時と半時」とは「聖なる民の力を砕くことが終わるとき」なのです。
「聖なる民」とは、もちろん「イスラエルの民」のことです。主は「大患難のとき」に「総仕上げ」をされます。
反キリストも道具に過ぎません
「反キリスト」も最終的には「神様の道具」に過ぎません。
その昔、主に背を向け偶像を拝んだイスラエルに対して、主は「アッシリア」を怒りの杖として用いられました。もちろん、アッシリアは、自分が「神の杖」として用いられているとは思ってもいませんでした。
アッシリアは「やり過ぎ」ました。彼らは残虐極まりない行為をイスラエルや、その他の諸国に行いました。
主は、そのようなアッシリアの行為を裁かれます。
主は必ず「アッシリア」を滅ぼすと言われたのです。
「その日」には、イスラエルの肩から「アッシリアのくびき」は除かれるのです。
「終わりの日」と呼ばれるときには、再び、このことが繰り返されるであろうと思います。
イスラエルは「自分を打つ者」となる「反キリスト」たちに頼るでしょう。
しかし、それが「最大の失敗」であることに気がつきます。気がついた時には「これまでかつてない苦難」が始まっていることでしょう。
「反キリスト」たちは「神の怒りの杖」として、大いに「イスラエル」及び「国々」を痛めつけるでしょう。
彼らは「聖徒たちに戦いを挑んで勝つことが許されている」のです。
しかし、それも「一時と二時と半時」の間です。
「聖なる民」であるイスラエルの力は砕かれます。まさに風前の灯火です。
しかし、イスラエルは滅びません。
主が「定められた日」に介入されるからです。
イエス様は言われました。。
言い換えると「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」とイスラエルが言うならば「イエス様」を見ることができるということです。
主はイスラエルから、この告白を引き出そうとしておられるのではないかと私は思います。
「ホサナ」とは、賛美のことばとして用いられますが、原意は「主よ、助けてください」「主よ、お救いください」という意味です。
「聖なる民」が心から「ホサナ」と叫ぶ準備が整ったとき、主イエスは姿を現してくださるのだろうと思います。
「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」という賛美がありますが、このことばは、賛美の歌以外では異邦人が絶対に使うことのないことばなのです。なぜなら、このことばは、ユダヤ人がユダヤ人のメシアを迎える時にのみ使う特別なことばだからです。~中略~
その大勢のユダヤ人が皆、民族的に集結し、大声で彼らのメシアを求めて叫びます。
「主よ! 赦してください。もう一度来てください。イエス様、あなたは私たちの神で、メシアです!」
そして「祝福あれ。主の御名によって来られる方に!」という叫びが聞かれた時、空がバッーと開けます。
イエス・キリストはもう一度来られる スティーブンス・栄子著 オメガ出版
「聖なる民の力を打ち砕くことが終わるとき、これらすべてのことが成就する」のです。
理解するのは「賢明な者」だけです
ダニエルは「亜麻布を衣を着た人の語るのを聞いた」けれど、その意味を理解することはできませんでした。
ダニエルには、その意味は「秘められ封じられて」いたからです。
ここまで幻を見て来たダニエルですが、主は、その意味を解き明かしてはくださいませんでした。
それは「終わりの時まで秘められ、封じられ」ているものだからです。
「ダニエルよ、行け」とは「もうこの件は終わりだ」ということでしょう。ダニエルの役目は終わったのです。
これは、終りの時の人々のことを言っているのでしょう。
面白いことは「悪しき者」に対比されているのが「賢明な者」であるということです。
「悪しき者」の反対にいる人は「正しい人」ではなく「賢明な人」なのです。
終わりの時、秘められた書の封は解かれます。しかし、だからと言ってすべての人が理解するわけではありません。読んでも「分からない人」もいるのです。
「悪しき者どものだれも理解することがない」と書かれているとおりです。
理解するのは「賢明な者たち」だけです。
終わりの時には「知識が増す」でしょう。
多くの人が「知識を増そうと捜し回る」でしょう。そして、彼らは「多くの情報」「多くの知識」を見つけ出します。
しかし「知識の多いこと」と「賢明であること」とは違います。
「賢明な人」は、聞いたみことばを心に留めます。
イエス様は「賢い人」とは「岩の上に自分の家を建てる人である」と言われました。
つまり「賢明な人」とは「堅く立って揺り動かされない人のこと」です。
敵は「契約に対して誠実にふるまう者」を堕落させるのです。
真面目に生きている聖徒を「巧言をもって堕落させる」のです。
これからの時代、ますます「知識は増す」でしょう。同時に「偽りの知識も増す」のです。
敵は「丸わかりの嘘」をもって攻めては来ません。真実の中に「ちょっぴりの嘘」を混ぜます。
敵は、あなたを「全面的」に、主から離してしまおうとはしません。まずは「一部分だけ」引き離すように仕向けるでしょう。
純銀に不純物が少しでも混ざれば、その価値は損なわれます。良いぶどう酒を水で薄めてしまえば台無しです。
サタンが狙うのはそのことです。「高価で尊い」ものを「少しの偽り」で価値のないものにしようとしているのです。
多くの情報の中で「偽り」を見抜くのは至難の業です。私たちは「何が偽りか」を疑心暗鬼の心を持って探すのではなく、ただ「自分の神を知ること」に集中しましょう。
偽札を見分ける秘訣は「本物をしっかり覚えることだ」と言いいます。
終わりの時、最も必要なことは「聖霊に満たされること」です。なぜなら、聖霊様は「主イエスの栄光を現す方」だからです。
私たちは「聖霊に満たされる」ことを求めましょう。自分の神を知りたいと切に願うなら、自分で勝手に追い求めるのはやめて、聖霊様があらわされるキリストの栄光を見なければなりません。
自分で勝手に追い求めるならば「自分の神」を造り出してしまうことになるでしょう。あなたの「イメージ通りの神」は、おそらく「生けるまことの神」とかけ離れているでしょう。
終わりの時代、人々が、聖徒でさえ「巧言」に騙されて落ちて行く理由は、「イメージの神」を追い求めるからではないかと思います。
聖霊様は、終わりの日を生き抜く私たちに必要な「すべて」です。
私たちは「賢明である」ことを求めます。それは「知恵と悟り」「思慮と力」「主を恐れる、知識」を求めることです。
聖霊様に満たされることを熱心に求めましょう。そうすれば、私たちも「理解するもの」とされます。
幸いなのは「忍んで待つ人」です
想像するのも辛いことですが、聖なる神殿に「荒らす忌まわしいもの」が据えられる日が必ず来ます。
そして、そこから「1290日」があると言われます。
1年をユダヤ歴360日で計算すると、三年半とは「1260日」です。
ですから「1290日」とは、三年半より「30日」多いことになります。
また続けて「幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は」と言われます。
「1335日」は、三年半より「75日」多い日数です。つまり先の日数より「45日」増えているわけです。
はてさて、さっぱり意味が分かりませんね(笑)
J・バーノン・マギー神学博士は「何らかの理由で、主イエスの再臨後30日間ほど、反キリストの像がそのまま置かれているのでないか」と言っています。
「1335日については、今、分かる人はいないだろう。それは大患難の時以降に明らかになる」と言います。
そうかもしれません。
一番多い意見は「諸国とイスラエルをさばく日時と関係がある」というものです。
これらの日について論理的に語ることはできないが、主が千二百六十日の終わりにイスラエルを救うために来られた後、諸国とイスラエルにおける反逆をさばく日時と関係があるらしい。~中略~
獣の像が建てられて後、ちょうど千三百五十日めに、主イエス・キリストが勝利のうちに全地を支配するであろう。
ダニエル書 H・S・ペイスリー著 伝道出版社
主の再臨後、三十日と四十五日、両方加えて七十五日が裁きのために用いられるということでしょう。
一人で学べるダニエル書 フルダ・K・伊藤著 文芸社
確かに、主の再臨後に「さばき」があることは間違いありません。
ヨエルは預言して言います。
以前の新改訳では「わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで」と訳されていました。
諸国の民は「イスラエルに対する態度」によってさばかれるのです。まあ、それは今回のメッセージには関係のないことですが。
このような「さばき」に関係する日数が付け加えられているのであろうと解釈されます。
確かに、主の再臨後、まだ「地上」は存在するわけです。
世界の指導者たちが「めちゃくちゃにした後始末」をする必要があります。
そのための日数であろうとという人もいます。
そうであるかもしれません。そうでないかもしれません。後片付けには、もっと長い日数がかかるでしょうから。
ただ確かなことは「幸いなことよ、忍んで待ち、達する者は」と言われていることです。
主は必ず来られます
強調されているのは「忍んで待つ」ことです。
そして「忍んで達する人」こそ「幸いだ」ということです。
終わりの日に必要なことは「忍耐」です。
これは、個人的な解釈ですが…
私は、サウル王の悲劇をこの箇所に重ね合わせてしまうのです。
サウルは「七日間」待ちました。サムエルが「私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません」と言ったからです。
しかし、七日間待ってもサムエルは現れませんでした。状況は、どんどん悪くなります。
「もうすぐサムエルが来るから」と言って引き留めていた兵たちも「離れて散って行こう」としていました。
サウルは「絶体絶命のピンチ」におちいりました。
終わりの時、そのような状況に聖徒は追い込まれるのかもしれません。大患難時代を通り抜けるイスラエルや残された聖徒は「いつ救いが来るのか」と追い込まれた状況で叫ぶでしょう。
「もう三年半なのではないか?」と聖書を知っている誰かがつぶやくかもしれません。
「そうだ、三年半だ。しかし主は戻って来られないじゃないか」
そのような時「最後まで耐え忍ぶ人」が幸いなのです。
ハバククも預言して言っています。
「必ず来る」とは、別訳では「来たるべき方が遅れることはない」です。
「遅い」と感じることがあったとしても「必ず来られ」ます。
サウルのようになってはいけません。「忍んで待つ」のです。主は、必ず戻って来られます。
時の終わりにあなたの割り当ての地に立つ
ダニエルの地上での生涯は、もう少しで終わるようです。
主は、ダニエルに「休みに入れ」と言われます。地上での生涯が終わることは、私たちにとっては「休みに入る」ことなのですね。
ダニエルは「休みに入り」ます。
ダニエルは「秘められた意味」を知ることを許されませんでした。生きている間に、約束の地「イスラエル」に戻ることもできませんでした。
モーセもそうです。エジプトからイスラエルを脱出させて、苦労して荒野の旅を導いたけれど「約束の地」に入ることは許されませんでした。
アブラハムは「約束の地」を与えると言われましたが、手に入れたのは「マクペラの畑地と洞穴」だけでした。
「手に入れられなかった」人々は、みな「失敗者」なのでしょうか?
彼らの人生は無駄であったのでしょうか?
この世のことしか考えない人々から見れば、彼らは「何も手に入れなかった」ように見えるでしょう。
しかし、彼らは「すべてを手に入れて」いました。
ただ、それは「まだ完成していない」だけのことです。
モーセは、地上に生きている間は約束の地に足を踏み入れることはできませんでした。
しかし、イエス様が栄光のお姿に変わられたとき、そこにいたのは「モーセとエリヤ」であったと記されています。
主のあわれみは「永遠」です。モーセは「約束の地」に主イエスとともに立ったのです。
ダニエルにも「約束」が与えられています。それは、永遠の父である方だからこそ「成就」できる約束です。
「あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」
これは、おそらく「千年王国」におけるイスラエルの割り当ての地のことでしょう。
ダニエルは、地上で生きている間「イスラエル」で暮らすことはできませんでした。しかし「時の終わりに」ダニエルにも割り当ての地が用意されているのだと、主は教えてくださったのです。
私たちの「希望」はなくなることはありません。
そして、おそらくですが、天の御国には、永遠に何かしらの「希望」が常にあるのではないかと思います。
私は永遠に「わくわく」することがあると信じています。
ダニエル書の学びは終わりです
今回でダニエル書の学びは終わりです。
ダニエルと三人の友たちの物語、得体のしれない獣たちの預言、果てしなく続く北の王と南の王の争い。
今回の学びで「すべてを網羅」したとはとても言えません。
これをきっかけに「預言書も面白いな」と思ってもらえれば幸いです。
どうぞ、続けて学んでください。
ダニエル書の学びにおいて、これだけは忘れないで欲しいと思うことを話して終わりたいと思います。
私は、ダニエル書は、結局のところ「2章」さえ理解できれば「まあ良いのではないか」と思っています。
2章の「ネブカドネツァルの夢」だけは覚えていてください。「巨大な像の夢」のことです。
「人手によらず切り出された石」が「巨大な像」を粉々に打ち砕くと書いてありましたね。
イエス様は、どんな「巨大帝国」であっても「粉々」にされます。主は必ず来られます。
そして、主の御国は「永遠」です。
このダニエルの祈りを自分の祈りとできれば、ダニエル書を学んだ価値があると私は思います。
私たちは「自分の神」を知りましょう。ますます「堅く立って事を行い」ましょう。
私たちは「永遠」に生きます。
見えるものが「すべて」ではないことを決して忘れないでください。
祝福を祈ります。