ダニエル12:1
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。
かつてなかったほどの苦難の時が来る
ダニエル書12章を学びます。とうとう終わりの章になりました。
今回は12章1節~4節までを学びます。
なんとも、情報の詰まった聖句ですね。一つずつ見ていきましょう。
まず「その時」について考えます。「大いなる君ミカエルが立ち上がる」時です。
イスラエルは、今までずいぶん「苦難」に遭いましたが「かつてなかったほどの苦難の時」は、まだこれから来ます。
イエス様は、空前絶後の苦難が起こると言われました。
「その時」はいつなのでしょう。
「その時」とは「悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下った」時です。
なぜ悪魔は「地」に下って来るのでしょう。
それは「天に戦いが起こった」からです。
終わりの時「天に戦い」が起こります。
それは「ミカエルとその御使いたち」と「竜とその使いたち」の戦いです。
おそらく、この戦いがダニエルの言う「その時」なのだと思われます。
天で「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる」のです。
天での戦いは「ミカエルとその御使いたち」が勝利します。「竜」とか「蛇」とか呼ばれるサタンは、その使いたちとともに地に投げ落とされるのです。
その時、サタンは「自分の時が短いことを知って激しく憤る」のです。
地と海にはわざわいが来ます。
「国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る」のです。
これが「大患難」と呼ばれる最後の時の始まりです。
御使いも戦っています
サタンは、投げ落とされる前までは「天」に出入りしていたのだろうと思います。
サタンは地を行き巡り、そこを歩き回り、そして、時には「主の前」に立つこともあったのです。
サタンは、人々を訴えるために「主の前」に出ることもあります。サタンは「兄弟たちの告発者」なのです。
また「御使いのかしらミカエル」と言い争うこともあったようです。
このように見ていくと、サタンは「自由」に「天」と「地」を行き巡ることができるようです。
主はサタンに「時」を与えておられます。主は、サタンを泳がせているのです。
しかし、ずっとではありません。サタンの自由は「期間限定」です。
それは必ず「終わる」のです。
少し御使いについて考えてみましょう
ミカエルは「御使いのかしら」と呼ばれています。「大天使ミカエル」などと呼ばれたりもしますね。
「かしら」と呼ばれるのですから、ミカエルは天使の長であるのでしょう。「長」が何人いるのかは分かりませんが、少なくとも「長」の一人なのは確かです。
サタンは「御使いの三分の一」を仲間に引き入れましたが、それでも、全能の神に仕える御使いは数えきれないほど多く存在するようです。
ダニエル書を学ぶとき、私たちは「天で戦いがある」ということを知ります。そして、同時に戦っているのは、私たちだけではないのだなということに気づきます。
霊の戦いがあることは分かっています。見えない敵がいることも承知しています。
ですから、主イエスの御名と流された血潮によって、勝利を宣言し立ち向かうのです。
しかし、時々、その戦いに圧迫されて沈んでしまいそうになります。一人で戦っているように感じて、孤独と恐怖に押しつぶされる気がします。
エリシャの従者が怯えたように、私も怯えてしまうのです。
町が馬と戦車の軍隊で包囲されたのを見て、エリシャの従者は怯えてうろたえました。その時、エリシャは言ったのです。
愛する兄弟姉妹。
あなたは決して一人ではありません。もちろん、常に聖霊様がいてくださいます。兄弟姉妹もいるでしょう。しかし、それだけではありません。
どうか私たちの目も開かれますように。
主は、私たちを孤独に放り出されることはありません。聖霊様は必ず一緒におられます。
しかし、それだけではなく、誰も味方がいないと思うようなとき、私たちの側には、おそらく御使いが遣わされているのではないかと思うのです。
世で働く聖徒は、時に孤独を感じることでしょう。職場で自分しか「神の子ども」がいないようなときは尚更です。
誰もかれもが敵のように感じることがあるかも知れません。見えない悪しき者が一斉に矢を放って来るように感じることもあるでしょう。
しかし、うろたえてはなりません。主イエスの御名と血潮を宣言しなさい。御霊がともにおられます。
そして、どうか、あなたの目が開かれますように。
「主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」
主は、あなたにも御使いを送ってくださいます。
あの書に記されている者は救われる
大いなる君ミカエルが立ち上がって、サタンが投げ落とされた後、地には「かつてないほどの苦難」が来ます。
イエス様は言われました。
「自分の神を知る人たちは堅く立って」最後まで耐え忍んで救われます。
救われるのは「あの書」に名前が記されている人々です。
逆に言えば「いのちの書に記されている人は、火の池に投げ込まれない」のです。
天には多くの書があるようです。
ダニエルは「真理の書」があると記しています。マラキは「記憶の書」が記されたと言っています。
黙示録には「数々の書物」が開かれたと書かれています。
おそらく、一人一人に書物があるのでしょう。あなたの書も私の書もあるのかもしれません。
地上の歴史が全て記されているのかもしれません。
けれど、最も大切なことは「いのちの書」に名前が記されているかどうかです。
私たちは、自分の人生を「終わり」から見ましょう。
今がどのようであっても、たとえ苦難に襲われたとしても、それでも最終的に「天に名が記されている」なら喜びましょう。
「天に名が記されている」なら、私たちの「終わり」は「火の池」ではありません。
「天に名が記されている」なら、私たちの「終わり」は「始まり」です。永遠のいのちです。永遠の喜びです。
ダニエルは、イスラエルの苦難について預言しています。
大患難をくぐり抜けて救われる人がいるのだと預言しています。これは、主の約束です。
「しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる」
イスラエルの中で「あの書」に記されている人々は救われます。
「あの書」に記されている人は、イスラエル人でも、異邦人でも「みな」救われるのです。
この場合の「救われる」とは「永遠のいのちによみがえる」ことです。
永遠のいのちか、恥辱と永遠の嫌悪か
「いのちの書」に名前が記されている人は「よみがえって永遠のいのちを受ける」のです。
しかし、そうでなければ「よみがえって恥辱と永遠の嫌悪を受ける」ことになります。
これは「大きな白い御座のさばき」のことです。
「あの書」に名前の記されていない人々は、この時「恥辱」を受けるのでないかと思います。あくまで個人的に「思う」だけですが。
自分の生前の「行い」が暴露されるとすれば、それは「恥辱」以外の何ものでもありません。
しかし「永遠のいのち」を受ける私たちは「恥辱」を受けることはありません。
ある牧師は言います。
「私は、終わりの日、私の行いを記した書物は真っ白だと信じる」
私も、そうではないかと思っています。
救いは「行い」にはよりません。
私は、主イエスを信じたときから「行い」によって報いを得るという生き方をやめたのです。
私は「恵みのゆえに信仰によって」救われたのです。
私は「行い」によって生きることをやめたので「行い」によってさばかれることはありません。
「有罪」か「無罪」かの裁判は、もう終わっているのです。
「キリスト・イエスにある者」は罪に定められないのです。
この地上において、それは真理です。であるならば「御国」においても真理でしょう。
地上において「罪に定められない」者が、御国で「罪に定められる」ことがあるでしょうか?
「天では法律が違うのだよ」と神様が言われることなどあり得るでしょうか。
「キリスト・イエスにある」ならば「決して」罪には定められません。
「無罪」の者の「行いをさらす」裁判官などいるでしょうか。
「あなたは御子のゆえに無罪にはなったけれどね、そうでなければ絶対に火の池に直行だ。あなたの行いがどれほど悪かったか確認しておこうか」などと神様が言われると思いますか。
主が、私たちに「恥辱」を与えることなど絶対にありません。
主は、私たちの罪を忘れてくださいます。「もう思い出さない」と言われるのです。
全知全能の神が「思い出さない」と言われるのです。
私の書物のページは「真っ白」であると、私は信じています。
もし何か書いてあるとすれば、こう書いてあると思うのです。
「恵みにより救われし者。聖霊の証印あり。天に国籍あり。神に特別に愛されし者」
「恵み」によって始まったのなら、その終わりも「恵み」です。
「あの書」に名前が記されていることを喜びましょう。
「いのちの書」に名前が記されているならば、私たちが受けるのは「永遠のいのち」です。
終わりの時まで封じられている書
主はダニエルに「このことばを秘めておき、この書を封じておけ」と言われました。
「秘めておく」のは「明かすため」です。「封じられた」のは「解かれる」ためです。
ダニエル書は「終わりの日」まで「秘められ」「封じられて」いたのです。
それは「神の知恵」によるものです。すべての「時」は、主が定めておられるのです。
今、「秘めておけ、封じておけ」と命じられていたダニエル書は「明かされ、解かれて」います。
なぜなら「終わりの時」が来たからです。
御子キリストにあって「語られる」時代は、すでに来ています。私たちは、イエス様のことばを聞き、イエス様の十字架とよみがえりを信じることのできる時代に生きています。
万物の終わり、すべての終わりが近づいているとペテロも言っています。
しかし、同時に「2000年も前から同じことが言われているじゃないか」という疑問も湧きます。
人々は「終わりの時」が近づくにつれて、ますます「本当に世の中が終わるなんて信じているのか」と言うようになります。
聖徒の中にも「再臨なんて、ただの妄想じゃないの?」という人が現れるでしょう。
私が「世の終わりが近い」と叫べば叫ぶほど「冷めていく」人々が現れるでしょう。
これほど「前兆」があるにも関わらず「世の終わりだと騒いで心を乱そうとする狂信者」と呼ばれることになるでしょう。
「再臨とか携挙とか、終わりの日とか、そんな話より、もっと恵まれるメッセージを」と言われることもあります。
しかし、私はやめません(笑)
このダニエル書の学びが終わったら、次は黙示録を学ぶ予定です(笑)
楽しみなのは、私だけかもしれませんが、私は本当に楽しみでたまりません。
今は天におられる、大好きな姉妹から「再臨、再臨って、いつも聞いてますけど、本当に何も起こりませんね」と言われた日には、心が折れかけましたが、それでも、やっぱり語り続けます。
なぜなら、本当に「終わりは近い」からです。
覚えてください。
旧約聖書において「主の来臨」は「ひとまとめ」なのです。
イエス様は、公生涯の最初にイザヤ書を朗読されました。
イエス様が目を留められ朗読されたのは「イザヤ61章1節~2節」です。
イザヤ61章の2節だけ見てみましょう。
「主の恵みの年、復讐の日」とイザヤは記しています。
しかし、イエス様は途中で区切られたのです。
「復讐の日」については朗読されませんでした。
なぜなら、主イエスの初臨は「恵みの年」だからです。イエス様は、一度目は「恵みの年」のために来られたのです。二度目は「報復」のために来られます。
確かに「今は恵みの時、救いの日」です。
ダニエルの70週の時計は止まっています。最後の1週を残したまま「ストップ」しています。
それが動き出せば「苦難の時」が始まるのです。
「止まっている」だけなのです。それが長く泊まっているように思うのは「主のあわれみが豊か」だからです。主が「恵み深く忍耐深い方」だからです。
「恵みの年」と「復讐の日」は、実は「一対」であることを忘れないでください。
私たちは「再臨はいつ来るのか」と遠い目をして空を仰ぎます。「終わりはまだか」と目をキョロキョロさせます。
しかし、実は「終わり」は常に「そこ」にあるのです。なぜなら、何度も言いますが「時は止まっている」だけだからです。
いつ来ても不思議ではないのです。とくに「携挙」は、今すぐ起こってもおかしくはありません。
私たちは「主が来られる」ことを常に覚えて、そして「主の死を告げ知らせる」のです。
主の御体と血潮にあずかる者は、みな「主の来られることを覚えて」いなければなりません。
「主の死」「十字架」を語る者はみな「主の来られること」を覚えていなければならないのです。
封印が解かれています
「終わりの時」である今、ダニエル書は開かれていると信じます。
本当に「すべて」が明らかになるのは「大患難の時代」なのだろうと思いますが、今、すでに明らかにされている部分が多くあることも事実です。
多くの者が「知識を増そうと捜し回る」でしょう。
イエス様は「ダニエル書」から引用されました。
イエス様は地上において「ダニエル書」を悟っておられました。
それは「ダニエル書」の封印が解かれたことのしるしだと思います。
しかし「悟る」のは聖霊様によらねば不可能です。
イエス様は、御霊に満ちあふれておられました。
聖霊様は「知恵と悟りの霊」です。
私たちも聖霊によって、ダニエル書を読むならば必ず「悟り」を得ることができるでしょう。
なぜなら、今は「終わりの時」でダニエル書は「封じられてはいない」からです。
御霊に満たされることを切に求めましょう。
ますます、御言葉が啓示されるように、日々、求めていきましょう。
私たちは、天を見上げて生きましょう。
そして「天に名前が記されている」ことを大いに喜びつつ、主を待ち望みましょう。
祝福を祈ります。