ダニエル11:36
この王は思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高く上げて大いなるものとし、神々の神に向かって驚くべきことを語る。彼は栄えるが、ついには神の憤りで滅ぼし尽くされる。定められることがなされるからである。
わがままな王が現れて滅びます
ダニエル11章の学びも最後になりました。
今回は、ダニエル11章36節から11章の最後までを学びます。
世界史の中で、36節以降と符合する出来事は見つけることができません。
35節と36節の間には、長い期間があることは確かです。少なくとも2000年以上は過ぎました。
その間、様々な「独裁者」が現れてはいます。ユダヤ人は多くの苦しみを味わいました。
しかし、いまだ「思いのままにふるまう王」は出現していません。
彼は、多くの学者さんたちから「わがままな王」と呼ばれています。この王の本質が「自己中心的」つまり「わがまま」だからです。
終わりのときに、この「思いのままにふるまう王」は出現します。彼は「わがままな」支配者です。
彼は「自分を高く上げ」「神に向かって驚くべきこと」を語ります。つまり、暴言を吐きます。
彼は「栄え」ます。しかし、その出現が定められているように「滅び」もまた確実に定められているのです。
終りのときの預言を学ぶときには、最後から見なければなりません。
主は「結末」を予告しておられるのですから、私たちは「結末」からすべてを見なければならないのです。
主は、すべての「始まり」であり「終わり」です。
始められた方こそ終わらせる方です。
その「始め」から「終わり」まで、すべてが定められています。
もうすでに「結末」が定められているのです。主は「終わり」から告げておられることを忘れないでください。
獣がどれだけ「思いのまま」にふるまおうとも、どれだけ「栄え」ていようとも、最後は「神の憤りで滅ぼし尽くされる」ことが定められているのです。
彼らの最後が「滅び」である反面、私たちの最後は「いのち」であり「新しい始まり」です。
私たちは、自分の人生も「最後」から見る必要があります。
私たちは必ず「勝利」するのです。ゆえに、私たちは恐れる必要がないのです。
神に敵対する者の最後は「神の憤りによる滅び」です。
神を愛する者の最後は「神の恵みによる永遠のいのち」です。
私たちの希望は、決してなくなることはありません。
彼は「砦の神」をあがめる
この「彼」とは「思いのままにふるまう王」のことです。
彼は「どんな神々も」心にかけないと記されています。古今東西、様々な偶像が崇められていますが、彼は、その中のどれをも心にかけません。
それは「自分を大いなる者」とするからです。
「すべてにまさって自分を大いなるものとする」というのは「不法の者」の特徴と同じです。
「反キリスト」は「自分こそ神である」と宣言します。人々に「自分自身」を拝ませます。
しかし、ダニエルの言う「思いのままにふるまう王」は「その代わり」に「あがめるもの」があるのです。
ただ一つの神だけはあがめると記されています。
「思いのままにふるまう王」は、どんな神々も気にかけません。
ただ「砦の神」だけをあがめるのです。
その「砦の神」に「金、銀、宝石、宝物」をすべてささげて仕えます。
「砦の神」の解釈は、様々あります。全部は紹介できませんから、2つだけ紹介したいと思います。
一つ目は「砦の神」とは「戦争」もしくは「軍事力」であるとする解釈です。
「砦の神」の「砦」は戦争を擬人化しています。つまり反キリストは戦争を神として崇め「金、銀、宝物」などの分捕り物で崇める、一種の軍国主義者です。
福音に生きる 油井義昭著 一粒社
軍事力こそ彼の神である。人間の力で世界の統合を試みようとするなら軍事力に頼らざるをえない。
ダニエル書 千田次郎著 いのちのことば社
反キリストたちが「巨大な軍事力」を確保するだろうことは想像できます。「戦争」をチラつかせて脅したり、実際に「軍事力」によって領土を手に入れたりするのかもしれません。
そう考えると「軍事力」「戦争」を「砦の神」とする説にも一理あるなと思います。
もう一つの解釈は「砦の神」は「サタン」もしくは「反キリスト」であるとする解釈です。
もちろん、この解釈が絶対に正しいとは言い切れません。ただ、今のところ私は、個人的に、そうであろうと思っています。
「思いのままにふるまう王」とは誰か
ほとんどの注解書では「思いのままにふるまう王」は「反キリスト」であると解釈されています。
そうかもしれません。その特徴はまさしく「不法の者」と一致しますから。
その場合、ダニエル7章の「もう一本の角」と8章の「小さな角」は、どちらも「反キリスト」であるという解釈になります。
そうかもしれません。そうではないと言い切ることはできません。そうであった場合「砦の神」とは「サタンそのもの」を意味するということになるのでしょう。
しかし、同時に少し疑問も湧くわけです。少しややこしいことを言いますので頑張ってください(笑)
7章の「もう一本の角」は「第四の国」つまり「ローマ帝国」から派生しています。
そして、その特徴は「海から上がって来た獣」に似ています。
「海からの獣」は「十本の角」を持っています。この「海からの獣」が「反キリスト」のことであることに、ほとんど異論はありません。ほぼ意見は一致しています。
そして、ダニエル7章の「もう一本の角」が、この「地からの獣」であることにも異論はありません。私も同意です。
次にダニエル8章の「小さな角」について見てみましょう。
ダニエル8章の「小さな角」は「ギリシャ帝国のセレウコス朝シリヤ」から派生した角でしたね。
つまり7章の「もう一本の角」とは「出自」が違うということです。
「思いのままにふるまう王」が誰であるのかは、もちろん、まだ分かりません。
しかし「この王」は、ダニエル11章35節以前の王たちの続きとして現れたと考えるのが自然です。
つまり「思いのままにふるまう王」は「セレウコス朝シリヤ」と関係が深い人物であると想像できます。
とすると、ダニエル7章に記された「もう一本の角」は「ローマ帝国」から派生するのですから、この「思いのままにふるまう王」とは違う人物であると思えます。
私は、個人的にですが、この「思いのままにふるまう王」は「反キリスト」ではないと考えます。
では、この「思いのままにふるまう王」とは誰なのでしょう。
「反キリスト」と同じように「大言壮語」し「狡猾」で「驚くべき破壊」を行う人物とは誰でしょう。
彼らは、まるで「瓜二つ」に見えます。実際、彼らは「一体」と考えても間違いではありません。
そのような人物は、私には、一人しか思い浮かべられません。
「地から上って来る獣」が、その人ではないかと思うのです。
この獣の他の呼び名は「偽預言者」です。
この「偽預言者」は、おもに「イスラエル」と深く関わる人物であることは確かでしょう。
「子羊のような二本の角」を持っている彼を、イスラエルは信用してしまうのだと思います。
彼こそが「反キリスト」を受け入れるようにと言葉巧みに誘導する人ではないでしょうか。
イエス様が言われたように、イスラエルは、いつの日か「その人自身の名」で来る「その人」を受け入れてしまいます。
「その人」は、まだ現れてはいません。
しかし、確実に現れます。
偽預言者は何をするか?
さて、偽預言者については「黙示録」で詳しく学びたいと思います。今回は「砦の神」に関係することだけを少し見てみましょう。
偽預言者は「海から上って来た獣」を礼拝させます。
「偽預言者」は、人々に「偶像礼拝」を強要します。しかし、どのような「偶像」でもよいわけではありません。
彼らは「キリスト以外」なら「何でも拝んでよい」とは言わないのです。世界の宗教を「統一」しようとします。
彼らは「反キリスト」だけを「礼拝せよ」と言うのです。
サタンは、正体を隠して、歴史の背後で暗躍していました。しかし、世の終わりに姿を現します。形としてという意味ではありません。
終わりの日、悪の三位一体が出現します。
「反キリスト」を拝むものは「竜」を拝むのです。人々は「反キリスト」に力を与えた「竜」の存在を認めるようになり「竜」を礼拝します。
「偽預言者」は「反キリスト」への礼拝を推進します。
「反キリスト」は「竜」によって力を増します。そして「偽預言者」は「反キリスト」の権威を用います。
「異国の神」とは、おそらく「先祖たちが知らなかった神」にかかっているのだと思いますが、ちょっとよく分かりません。
「異国」とはダニエルにとって「異国」なのかなと思えます。
しかし、もしこれが「思いのままにふるまう王」にとって「異国」であるとしたら、この王は「ユダヤ人」なのかもしれないと言う人たちもいます。(その他にもいろいろ根拠はあるようです)
そうかもしれません。けれど、そうでないかもしれません。断定はできないと思いますし、する必要があるとも思いません。
「思いのままにふるまう王」は「認める者には栄誉を増し加え、多くのものを治めさせて、代価として国土を分け与える」と記されています。
これは、まさしく「アンティオコス4世」が行ったことと同じですね。
終わりのとき、多くの人々が「彼に認められるため」に必死になることでしょう。
終わりの時に起こること
「北の王」と「南の王」の争いは「終わりの時」まで続きます。
「終わりの時」に「南の王」エジプトが「北の王」に反乱を起こすようです。
「北の王」は、文章の流れからすれば「思いのままにふるまう王」のことでしょう。つまり「偽預言者」ということになりますね。
「南の王」はエジプトのことであるのは間違いありません。しかし、現在のエジプトと同じような国であるのかは不明です。
「北の王」たちの軍は、「南の王」エジプトを襲撃します。周囲の国々に侵入し、荒らし、略奪するようです。
「エドムとモアブ、またアンモン」とは、現在のヨルダン王国の辺りです。
「終わりの時」、反キリストたちは、イスラエルを含む中東一帯を襲撃し略奪します。
しかし、ヨルダン王国周辺の人々は、その魔の手から逃れるようです。
もしかすると、荒野でイスラエルが守られることを関係があるのかもしれません。
多くの注解者が、この時「女イスラエル」が養われる場所は「ペトラ」であると言っています。「ペトラ」は、ヨルダン王国にある遺跡です。ヘブル語では「ボツラ」です。
断崖絶壁に立てられた難攻不落の要塞でした。
「細道(シーク)」と呼ばれる一本道しか、中にたどり着くための入り口はありません。その「細道(シーク)」は1200mも続くのです。
その昔「ペトラ」には、数万人(3万人ぐらい)が暮らしていたと言われています。
主は、ペトラに逃げたイスラエルのためにヨルダン王国を守られるのかもしれません。
「ルブ」とは「リビア」のことです。「クシュ」とは「エチオピア」です。
「北の王」たちの進撃はアフリカの方にまで及ぶようです。彼らは「思うがまま」に侵略していきます。彼らに従う者は増えていきます。リビアもエチオピアも傘下に入ります。
しかし、そのような快進撃の最中に思いもよらぬことが起こります。
「東と北から」の何がしかの知らせが「北の王」を怯えさせるのです。
「北の王」を怯えさせたのは「大河ユーフラテスの向こうから大軍が来る」という知らせであるのかもしれません。おそらく、そうでしょう。
「北の王」たちは「激しく怒って戦いに出て」行きます。
この行動が間接的に「ハルマゲドンの戦い」につながっていくのだと思います。彼らは、最初から「天の軍勢」と戦うために集まるのではなく、それぞれの理由をもって「集められる」ということです。
終わりの日、全世界の大軍が「神の大いなる日」のために「ハルマゲドン」と呼ばれる場所に集められます。
彼らの最後は、そこまで迫りました。
彼らは本拠地をイスラエルに置きます。
「海と聖なる麗わしい山との間」とは、「地中海」と「エルサレム」の間のことでしょう。メギドなのかもしれません。
おそらく、そこに突然、主が介入されるのではないかと思います。
「反キリスト」と「偽預言者」は出自は違いますが、最後は同じ所に行きます。
「ついに彼は終わりを迎える」のです。
へりくだって学びを続けなければなりません
ダニエル11:36~45は、とても難解です。まだ、起こっていないことを解釈しようと試みているのですから、それも当然です。
私は、今まで、さも、この説が正しいというように説明してきましたが、それは、起こって見ないことには分かりません。
実は、今回、説明した解釈は「最も多くの人が支持する」ものではありません。もしかすると「少数派」であるかもしれません(笑)
様々な解釈がありますが、多くの人が「思いのままにふるまう王」は「反キリスト」のことであるとしています。
また、40節以降の「北の王」は「ロシア」のことであると解釈している聖書学者が多いいのは事実です。その根拠は、エゼキエル書にあるとします。(エゼキエル38章と39章を読んでください)
私も、かなり迷いました。偉い先生の意見を聞いて、エゼキエル書を読めば「ロシア」なのかもしれないなと思ったりもします(笑)
しかし、私の勉強不足ですが「ロシア」であるかそうでないか、断定できる説明を、聖書の中に見つけることができませんでした。
いろいろ調べてはみましたが、どう考えても、40節から急に「北の王」を「ロシア」と解釈する不自然さを払拭するには至らず、エゼキエル書と関係づける決め手も見つけられませんでした。
この見解には、しかし、それまでの文脈の中でずっとシリヤのセレウコス王朝に連なる王として捉えてきた「北の王」を、急に40節で、北からの嵐のように押し寄せるロシアの同盟軍と解釈するような不自然さがあり、妥当とは言えないでしょう。
一人で学べるダニエル書 フルダ・K・伊藤著
少数ですが、同じように感じておられる先生方もおられるようです。
しかし、絶対に「ロシア」ではないとも言い切れません。
このことについいては、理解できるように祈りつつ、学びを深めていきたいと思います。
どうか、あなたも続けて考えてください。
御言葉の学びには「思い込み」「決めつけ」が一番の敵であると私は思います。「よく分からない」ことがあるのは、主のあわれみなのだろうと感謝します。
キリストは「ベツレヘム」から出ると言った、この人は聖書をよく知っていました。しかし、彼は「イエス様ご自身」をよく知らなかったのです。
イエス様は「ガリラヤ」の人ですが「ベツレヘム」でお生まれになりました。
私たちは、注意しなければなりません。私たちは、天の御国に行くまでは「完全に知る」ことはないでしょう。「知らないことがある」ということを忘れてはならないのです。
聖書の「文字」をよく知っていたとしても「真理からそれる」ことがあります。
「知識」を増すためだけに「みことば」を学ぶなら、私たちは「真理からそれる」ことになるでしょう。
私たちは「御霊」が啓示されることを知るのです。「御霊」は常に「キリストの栄光」を現わされます。
「みことば」を学ぶことによって、より深く「キリスト」を知り、その「栄光」に圧倒されないのなら、私たちの学びは間違っています。
私は、そのことを、常に、自分自身に言い聞かせていなければなりません。
私たちに定められていること
「思いのままにふるまう王」が誰であったとしても、確実なことは「ついに彼は終わりを迎える」と言うことです。
「彼は栄えるが、ついには神の憤りで滅ぼし尽くされる」のです。
「神の憤りで滅ぼし尽くされる」ことは、非常に恐ろしいことです。
どれだけ「栄え」ようとも、彼らに待っているのは「硫黄の燃える火の池」です。
愛する兄弟姉妹。
このメッセージの最初にも言いましたが、人生とは「終わり」から見るべきものです。「今」は、その瞬間瞬間「過ぎ去って」います。
「今」が終わりを決めるのだと私たちは思います。つまり「終わり」は、私たち次第で「どのようにでも」なると考えているのです。
しかし、聖書は言います。
「終わりは定められている」と。
悪しき者の「終わり」が定められているように「神の子ども」である私たちの「終わり」も定められています。
私たちが「子」とされることは「定められて」いました。
御父は「みこころの良し」とするところにしたがって「定め」られたのです。その決定をご自分から放棄されることはありません。
私たちは「今」は、信仰により「神の御力」によって守られています。
そして、後に「用意されている救い」をいただくのです。
終わりの時、私たちに現わされるのは「憤りによる滅び」ではありません。
終りの時、私たちには「救いが用意されている」のです。
私たちに「用意」されているものを望んで生きましょう。
それは「定められて」いるので、必ず、いただけるものなのです。
聖書の中に、どれほど「栄光に富む、あなたのために用意されたもの」があるか数えてみてください。
そうすれば、私たちは「終わりの時」を心待ちにするようになるでしょう。
私たちは「心を騒がせる」必要はありません。
今がどうでも、途中がどうでも、心配することはないのです。
私たちの「終わり」は「良い」のです。私たちに用意されているのは「救い」です。永遠にイエス様とともにいる場所です。
私たちは「終わり」を見て生きましょう。
イエス様を信じましょう。
主の来られることを、切に切に待ち望みましょう。
祝福を祈ります。