ダニエル11:32
彼は、契約に対して不敬虔にふるまう者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは堅く立って事を行う。
一人の卑劣な者の続き
ダニエル書11章の学びを続けています。
マタイは、イエス様が語られている途中に、わざわざ「読者はよく注意せよ」と記しています。
マルコの福音書にも同じように記されています。
マタイとマルコは、同じ資料を用いているのだろう、などと世の学者さんみたいなことを言いたいのではありません。マタイもマルコも、そんなことを証明するために「読者はよく理解せよ」と挿入したわけではないでしょう。
私たちは、真剣に受け留めなければなりません。
「読者」とは、私たちのことです。福音書を読む人はみな、「よく理解」しなければなりません。少なくとも「理解するように努める」べきだと私は思います。
イエス様が言われた「荒らす忌むべきもの」が「アンテォオコス4世・エピファネス」のことでないのは明白です。
アンティオコス4世は、イエス様が地上を歩かれた時代には、すでにこの世にはいませんでした。
では「荒らす忌むべきもの」とは、何のこと、もしくは、誰のことなのでしょう。
それは、まだ現れてはいません。
しかし、現れてはいないけれど、私たちは「よく理解せよ」と言われているのです。
「預言者ダニエルによって語られた」とイエス様が言われたのですから、ダニエル書にヒントがあるのです。
アンティオコス4世は「荒らす忌むべきもの」ではありませんが、彼が「予型」であることは間違いないでしょう。
今回は、この「荒らす忌むべきもの」の予型であると思われる「アンティオコス4世」が、イスラエルに対して「何をしたのか」ということを学んでいきます。
ここから、次に現れる本物の「荒らす忌むべきもの」を少しは理解できるのではないかと思います。
横柄で策にたけた一人の王は「狡猾」です
アンティオコス4世・エピファネスは「横柄で策にたけた一人の王」です。
「エピファネス」とは「顕現」という意味です。彼は、自分を「神の顕現」であると言いました。
しかし、世間の人々は「エピマネス」と陰で呼んでいました。「エピマネス」とは「狂人」「気が狂った人」という意味です。
人々は、彼の残虐行為を見て「とても正気だとは思えない」と言ったのです。
彼は「狡猾な人」です。
エバをそそのかした蛇も「狡猾であった」と言われます。
「荒らす忌むべき者」と呼ばれる人も「狡猾」であるに違いありません。
その背後にはサタンの存在があることは明白です。
蛇がエバをどのように誘い込んだのか、私たちは、それをよく覚えておかなければなりません。
創世記を学ぶことは重要です。創世記は「聖書の苗床」と呼ばれます。ここに、知らなければならない多くのことが記されているのです。特に3章をじっくりと学ぶことが必要です。
蛇は「神のことば」を疑うように仕向けました。エバが「神のことば」に背くように導いたのです。
いつの時代であってもサタンの目的は変わりません。
何度も言っていますが「罪を犯させること」がサタンの目的なのではありません。
あなたが罪を犯してしまったとしても、それですべてが終わってしまうことはありません。救いは「完全」です。私たちは「罪を言い表すなら、イエスの血潮によってきよめられる」のです。
ですから、もし罪を犯してしまったとしても「戻れない」とは考えないでください。
「もうダメだ。神様は私を愛してはくださらない」と思ってはなりません。
「何度も同じことを繰り返してしまった。主は、私を見捨てられた」と言ってはなりません。
それこそ、サタンの思う壺です。
サタンの目的は、あなたを神様から「引き離すこと」だからです。神との断絶です。願わくば、永遠に断絶しようと目論んでいるのです。
ゆえに「神のことば」を捻じ曲げます。「神のことば」に疑いを抱かせます。「神のことば」に反対させます。
「神のことば」を捨てるように仕向けます。
アンティオコス4世も、まさにそのようにしたのです。
狡猾な者が「荒らす忌むべきもの」を置きます
「北の王アンティオコス4世」は、再び、「南の王」エジプトを攻めますが、今回は上手くは行きませんでした。
キティムとはキプロス島のことです。ローマの艦隊が、キプロス島のあたりからエジプトに航行していました。
ローマの艦隊が、アンティオコス4世を阻んだのです。
アンティオコス4世は、落胆して引き返すしかありませんでした。
落胆したまま大人しく帰れば良かったのです。しかし、彼は大人しく帰るような人ではありません。
戻る途中「イスラエル」で大暴れするのです。
「聖なる契約にいきり立って事を行う」と記されているとおりです。彼は異常と思えるほど「神のことば」を憎みました。律法が記されている巻き物などを発見すると、即、焼き払いました。それを持っていた人は殺されました。それだけでなく、近くにいただけの人も殺しました。
「彼の軍隊」とは、もちろんアンティオコス4世の軍隊です。彼らは、イスラエルで残虐非道な行いをするのです。BC168年のことでした。
アンティオコス4世は「聖所」を汚します。
イスラエルから「いけにえをささげること」を取り上げました。
彼は、ギリシャの神々を拝むように要求しました。偶像を拝むことを拒否するイスラエル人は殺されました。
アンティオコス4世は自らを「ジュピター・オリンピア」と称します。ジュピターとは、ゼウスとも呼ばれます。ギリシャ神話の最高神のことです。
自らを「オリンピア」つまり「ギリシャ」の最高神であるとしたわけです。
そして「ジュピター・オリンピア」の彫像を造らせ、あろうことか、イスラエルの聖なる神の宮「神殿」に安置したのです。
終わりの時、狡猾な王が現れます。その人こそ、主イエスの言われた「荒らす忌むべき者」です。
「荒らす忌むべき者」が「忌むべきもの」を聖所に置きます。
アンティオコス4世は、後に現れる「地から上って来る獣」であると、私は考えています。
この「地から上って来る獣」は「偽預言者」と呼ばれる人物です。
「海から上って来る獣」つまり「反キリスト」とは別人ですが「同じような人」でしょう。「竜」のように語るのです。「大言壮語する口」があるのです。
サタンは、聖なる三位一体を模倣します。
それは、本当に、ただの模倣に過ぎません。
「反キリスト」「偽預言者」「竜であるサタン」は、悪の三位一体です。「獣」を拝ませること、つまり「竜であるサタン」を拝ませることに関して、彼らは「一体」です。
そういう意味において、アンティオコス4世は「偽預言者」の予型でもり、「反キリスト」の予型でもあると言えると思います。
アンティオコス4世は「ヘレニズム最高」「ヘレニズムが世界一」と思っていた人でした。
ですから「唯一の神」を信じるイスラエル人とは合い入れませんでした。
彼は、イスラエル人を「ギリシャ化」させようとしました。
反対するイスラエル人を容赦なく殺害しました。
アンティオコス4世の軍隊は、イスラエル人が戦わない日、つまり「安息日」にエルサレムを攻撃します。そこですさまじい殺戮が行われました。
アンティオコス4世は、イスラエルを憎んでいるとしか言いようがない「非道卑劣」な行為を、これでもかというぐらいに行います。
一説によれば、アンティオコス4世は、イスラエル人に「豚」をささげるように強要したそうです。拒んだイスラエル人は、もちろん殺されました。
彼は「聖所」をとことん汚しました。聖所に豚の煮汁をまき、聖所の器を豚の血で満たしたと言われています。
しかし、彼は「残虐な行い」だけをしていたわけではありません。
巧言をもって堕落させる
「契約に対して不誠実にふるまう者」とは、律法を捨てるイスラエル人のことです。
「狡猾な者」であるアンティオコス4世は「律法を捨てて自分に従う者」を優遇しました。
アンティオコス4世の政策に従って「ギリシャ化」した人々は重んじられることになります。
アンティオコス4世の「ギリシャ化政策」は徹底したものでした。イスラエル人たちは「ヘブル語」ではなく「ギリシャ語」を話さなければなりませんでした。
使徒の働きには「ギリシャ語を話すユダ人」と「ヘブル語を話すユダヤ人」のいざこざが記されていますが、それはこの時、多くの子どもたちが「ギリシャ語」で育てられたからです。「ヘブル語」を離せない人も多く育ったのです。
この時代、エルサレムにも大きな「劇場」が建てられたようです。大祭司ヤソンが「ギリシャにあるような劇場を建てたい」と言い出したからです。アンティオコス4世の機嫌を取りたかったのかもしれません。
多くの人が「劇場」を歓迎する一方、「神聖なエルサレム」に劇場なんてと顔をしかめる人々もいました。
大祭司が率先して「ギリシャ化」を受け入れました。そうなれば、それに追随する人々が出ても当然だと思えます。
彼らの言い分は「イスラエルの神を捨てるわけではない。ただ良い物は受け入れるべきだ。ギリシャの良い物で豊かになるのは悪いことなのか。律法に固執するなんて時代遅れじゃないか」というものです。
彼らは、まるで分っていないのです。
「神の律法」を捨てることは「神との契約」を破棄することです。
イスラエルが特別なのは「神の律法」が与えられているからだということを、彼らは理解していないのです。
アンティオコス4世は「巧言」を使います。つまり「上手いこと言う」のです。
多くの人が迫害され命を失いました。その一方、アンティオコス4世の「巧言」に乗った人々は、お金持ちになったり、昇進したり、優遇されたりしたのです。
彼らはなぜ「巧言」に乗ってしまったのでしょう?
それは「自分の神」を知らなかったからです。
「自分の神を知る人たちは堅く立って事を行う」と聖書は言います。
「大祭司」でさえ「自分の神」を知らない人であったのです。彼らは「賢く」生きているつもりであったでしょうが「堅く立って」はいませんでした。
彼らは、主に仕えていると言いながら、本当のところは「自分の欲望を神」としていたのです。
自分の神を知る者は堅く立って事を行う
聖書は言います。
「キリストの十字架の敵」とは、激しく厳しいことばです。
「キリストの十字架を敵」として歩めば、当然のこと「最後は滅び」です。
彼らは「欲望を神」として生きる人々です。つまり、自分の欲望に「仕えている」ということです。
彼らの思いのすべては「地上のこと」だけです。天の御国があること、永遠の報いについては、これっぽっちも考えることはしません。
恐ろしいのは、これが聖徒に向けた手紙であるということです。パウロは「イエス様の御名によって集っている人々」に向けて手紙を書いているのです。
私たちは、何に仕えているでしょう?
自分自身にでしょうか?
それとも、主なる神にでしょうか?
終りの困難な時代に人々が愛するものが「3つ」あります。
終わりの時、人々は第一に「自分だけを愛する者」となります。
そして、第二に「金銭を愛する者」となります。
第三に「神よりも快楽を愛する者」となります。
サタンは、必ず、この3つのことにおいて「巧言」を使って来るでしょう。
世に現れる「反キリスト」「偽預言者」は、これらを「保証する」ことで支配力を高めるはずです。
そして、それこそ、まさしくアンティオコス4世が行ったことなのです。
私たちは「自分の神」を正しく知らなければなりません。「自分がこう思うところの神」を追い求めてはならないのです。
「自分中心」の信仰生活を送っているならば、どこかで「巧言」に乗ってしまうことになります。「自分のこと」だけを考えて生きるならば、必ず騙されます。
「地上のことだけを考える」ならば、目に見えない「本当に大切なもの」を失うでしょう。
敵は「豊かさ」「快楽」「いのちの保証」を提供すると必ず言います。確かに地上において、敵はそれらを「提供」してくれるように見えます。
その逆に、聖徒の目の前には「貧しさ」「辛苦」「死の憂き目」がチラつくように見えるかもしれません。
しかし、それは「見えるところにおいてだけ」です。
イエス様は言われました。
失った私たちは「見出す」のです。
私たちは失います。そして「キリストのうちに、いのちを見出す」のです。
その「いのち」は、もっとも「安全」で、決して「失われない」のです。
実際、聖徒であることの醍醐味は、そこにあると言ってよいでしょう。
愛する兄弟姉妹。
私たちは喜びを爆発させましょう。「何も持っていない」けれど「すべてのものを持っている」のですから。
私たちは、敵から「何一つ提供される必要はない」のです。
私たちは、喜び勝ち誇りましょう。
私たちには「すべてのすべてであるキリスト」がおられるのです。
「おまえには何もない」と誰かが言うなら、私たちは満面の笑みを浮かべて言いましょう。
「そのとおり。私には何もない。けれど、私には主イエスがおられる。この方はすべてを持っておられるので、私もすべてを持っているのだ」と。
私たちの神は「目に見えない方」であるという真理を忘れてはなりません。それは、つまり「見えるところがすべてではない」ということです。
私たちは「死にそう」に見えるかもしれません。しかし「生きて」います!
「悲しんでいる」ように見えたとしても「喜んで」います!
「貧しい」ように見えても「多くの人を富ませ」ることができます!
「何も持っていない」ようでも「すべてを持って」いるのです!
それは、すべて「キリストのうちにある」からです。
上にあるものを思って生きるなら、私たちは「自分の神」を正しく知ることができます。
「地上のことだけ」を考える人々の栄光は「恥ずべきもの」です。しかし、上にあるものを思って生きるならば、私たちは「栄光に輝く姿」を得ることができるでしょう。
上を見上げましょう。
そこにはキリストが神の右に座しておられます。
上を見上げましょう。
そこに私たちの国籍があります。
上を見上げましょう。
そこから、やがて主イエス・キリストが救い主として来られます。
私たちは「上にあるもの」を思って、この地を歩くのです。そうすれば「巧言」に騙されることはありません。
マカバイ家の反乱が起こりました
アンティオコス4世の残虐行為に負けず立ち上がった人々がいました。
「民の中の賢明な者たち」が苦難の中で立ち上がったのです。
一般に「ユダ・マカバイの反乱」と言われるBC168年の出来事です。
祭司の息子の「ユダ・マカバイ」という人が、数千人を率いて「北の王」アンティオコス4世の軍隊(数万人)に立ち向かったのです。
彼らは「いのちのことを心配するな。神がともにおられる」と言って戦ったと言われます。
それは、苦闘と呼ぶべきものでした。彼らは「剣にかかり」「火に焼かれ」「かすめ奪われ」「倒れ」ます。
しかし、そのような彼らの姿は「多くの人を悟らせ」ました。
ユダ・マカバイの反乱は、一応、成功したと言えます。彼らは「聖所」を奪還するからです。
ギリシャ派の人々は処刑され、聖所から偶像が取り除かれました。
しかし、平和を維持することはできませんでした。戦いは続いたのです。
ユダ・マカバイたちは、容赦なく「律法を捨てる者」を切り捨てました。そんな彼らを恐れて「巧みなことば」ですり寄って来る者もいたようです。
これは、イスラエルの最も暗い時代であると言われます。
しかし、ユダヤ人と呼ばれる彼らの「暗黒時代」は、この先も続きます。
それは「定めの時がまだ来ないから」です。「定めの時まで」続くのです。
その目的は「彼らが練られ、清められ、白くされるため」です。
しかし、彼らは必ず救われます。時が来れば、イスラエルはみな救われます。
練られ、清められ、白くされ、自分の神を知っていくのです
さて、ここまでが実際に歴史上すでに起こった出来事です。
ダニエル書の預言の詳細なことには、驚くばかりです。
ここまで詳しく「定められて」いることを私たちは覚えていなければなりません。
これから先のことも同じように、主は「詳細に定めて」おられます。
私たちは、主の御手の中に生かされていることを心に留めましょう。
確かに「争い」は続きます。
私たち個人の人生においても、何らかの「争い」「問題」が発生するでしょう。
しかし、恐れる必要はありません。
全能の神は「すべて」をご存じです。
主は、小さな「私」のためにも「書物」を用意してくださいました。「私」について「綿密」に計画をしてくださいました。
私たちは、主に忘れられることは決してありません。
予期せぬ出来事に「おびえる」ことはありません。私たちが予期していなくても「主はご存知」なのです。
様々な出来事は、私たちが「練られ、清められ、白くされるため」に用いられます。
そのようにして、私たちは「自分の神を知る」ようにされるのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「自分の神」を知ることを切に求めましょう。
そうして、どのような時でも「巧言」に迷わされることなく「堅く立って事を行う者」となりましょう。
祝福を祈ります。