ダニエル11:32
彼は、契約に対して不誠実にふるまう者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは堅く立って事を行う。
アンティオコス3世の続きから
前回は、ダニエル11章16節までを見ました。
「北の王」アンティオコス3世が「麗しい国」つまりイスラエルに侵入したところまでを学びました。
今回は、その続きから、ダニエル11章27節までを学びます。
「彼」とは「北の王」シリヤのアンティオコス3世のことです。
「北の王」アンティオコス3世は、完全に「南の王」エジプトを手に入れようと決意します。エジプトのすべてを支配下に置こうと決めたのです。
そのために「和睦」という名の「政略結婚」を画策します。自分の娘を「スパイ」として「南の王」に嫁がせたのです。
しかし、この作戦は成功しません。
なぜなら、送り込んだ娘「クレオパトラ1世」が「南の王プトレイマイオス5世」に、本当に「恋」してしまったからです。
ちなみに、ここでいうクレオパトラは、かの有名な映画に出てくるクレオパトラではありません。絶世の美女と呼ばれたクレオパトラは「7世」です。
「クレオパトラ1世」は、父であるアンティオコス3世のためではなく、愛する夫である「プトレイマイオス5世」に尽くすことを選んだのです。
ゆえに、この策略は成功しませんでした。
いくら策に長けたアンティオコス大王であっても、娘の恋心までは計算できなかったということですね。
「しかしそれは成功せず、彼の思いどおりにはならない」と記されているとおりです。
アンティオコス3世の最後
政略結婚の作戦は失敗に終わりました。
それで「北の王」アンティオコス3世は、ほかの国に目を向けるのです。
「多くの島々」とは、地中海の島々のことです。
当時、地中海周辺で「ローマ」が急速に勢力を伸ばしていました。この「多くの島々」の背後には「ローマ帝国」がいたのです。
覚えていますか?
「青銅の腹とももの国」であるギリシャ帝国の次の国は、「鉄のすねと足の国」であるローマ帝国でしたね。
「ある指揮官」とは、ローマ帝国の指揮官「ルキウス・スキピオ」のことでしょう。
だいたいBC190年ごろ、「北の王」アンティオコス3世は、ローマの指揮官「ルキウス・スキピオ」と戦います。そして、敗北します。
あれだけの権勢を誇った「北の王」アンティオコス3世が、ローマの「指揮官」に敗れたのです。
占領した地において、人々を侮辱してきた「北の王」が、今度は「侮辱」を返されます。
「ローマ帝国」と「北の王シリヤ」は講和条約を交わします。その際、「北の王」は「多額の賠償金」を支払うという条件に応じるしかなかったのです。
「北の王」アンティオコス3世は、スゴスゴと自分の国に戻ります。そこで「倒れていなくなる」のです。
史実によると、アンティオコス3世は兵士ではなく「領民」に殺されたということです。
「賠償金」の支払いに困ったアンティオコス3世は、偶像の宮の宝物を強奪しようとして、領民の反発を買ったようです。一説によると、宝物を漁っている背後から刺されたと言われます。
想像すると、何ともあっけないというか、惨めな最後です。
さて「北の王」アンティオコス3世の治世は終わりました。
しかし、それで国に課せられた「賠償金」の支払いが免除されるわけではありません。
「彼に代わって、一人の人が起こる」とは、アンティオコス3世の息子「セレウコス4世フィロパトール」です。
「北の王セレウコス4世」は、賠償金の支払いのために「税金」を取り立てます。
「税を取り立てる者」は、イスラエルにも行き巡って取り立てました。この「税金」には、イスラエルの人々もかなり苦しめられたようです。
さて、この「税を取り立てる者」は「ヘリオドロス」という名前の家臣でした。
この「ヘリオドロス」という家臣が「北の王セレウコス4世」を毒殺します。
「怒りにも戦いにもよらずに滅ぼされる」と記されているとおりです。
「真理の書」には、細かい部分まで記されているものですね。ここまで詳細に記されていると、恐ろしくもありますし、感動もします。
さて、やっとここまで来ました。
とうとうアンティオコス4世・エピファネスの登場です。
この王の時代については、かなり長く記されています。イスラエルに最も関わりの深い人物であるからです。
一人の卑劣な者と呼ばれる人
さて、もうしばらくで「ややこしい歴史の話」は終わりますから頑張ってください。
「一人の卑劣な者」とは「アンティオコス4世・エピファネス」のことです。
この「北の王アンティオコス4世」は、自らのことを「セオス・エピファネス」と呼びました。
「セオス」とは、ギリシャ語で「神」のことです。「エピファネス」とは「顕現」という意味です。
つまり、彼は自分のことを「神の現れ」「現人神」であると言ったのです。
しかし、主の御目には、ただの「卑劣な者」でしかありません。
「アンティオコス4世・エピファネス」は、イエス様が言われた「荒らす忌むべき者」の予型です。
私たちは「よく理解せよ」と言われていることを心に留めなければなりません。
これが「卑劣な者」のやり方です
まずアンティオコス4世は、正統な王位継承者ではありません。
正統な王位継承権は、彼の甥、つまり兄セレウコス4世の息子「ソーテール王子」のものでした。
しかし、それを「言葉巧み」に騙し取ったのです。「摂政」という立場を利用して、味方のようなふりをして、奪い去りました。それは手品のように「いつの間にか」王様になっていたのです。
おそらく、反キリストや偽預言者と呼ばれる人物も同じように権力を握るのでしょう。彼らは「不意に」やって来て、そして「いつの間にか」世界は彼らの手中に置かれていることでしょう。
「洪水のような軍勢」とは、アンティオコス4世の即位に反対した人々のことだと思われます。
アンティオコス4世に反対する者は「一掃」されました。
また「契約の君主」とは、イスラエルの「大祭司」のことです。
当時の大祭司「オニアス3世」は退けられて、その弟「ヤソン」が大祭司に抜擢されました。「ヤソン」は、アンティオコス4世に「貢ぎ物」を送る約束をして「大祭司」にしてもらったと言われています。
しかし、ヤソンは、すぐに大祭司の座を奪わます。次に大祭司になったのは「ベニヤミン族のメネラオス」でした。
ベニヤミン族は、本来は祭司にはなれません。しかし、メネラオスは「金銭」で地位を買ったのです。
アンティオコス4世に「貢ぎ物」をして「ヘレニズム文化を擁護する」という立場を取る者なら、誰でも大祭司になれました。
神にではなく、アンティオコス4世に取り入る者が「大祭司」となったのです。レビ族でなくても、何族であっても、アンティオコス4世のお気に入りになれば「大祭司」に任命されたのです。
恐ろしい時代ですね。当時のイスラエルの状況が何となく想像できるようです。
「北の王アンティオコス4世」は「南の王プトレイマイオス6世」と同盟を結びます。しかし、「南の王」は、あっさりと裏切られることになります。
「卑劣な者」は、同盟国であるエジプトに「少ない人数」で侵入します。同盟を結んでいる国が攻めてくるなどとは思っていなかった「南の王」エジプトは、ひどい目に遭います。
「その州の肥沃な地域」とは、エジプトの肥沃な地域ということです。
同盟国に「不意に」侵入するという「卑劣な」戦い方をして、アンティオコス4世は「勢力」を増していきます。
彼は、エジプトから様々なものを略奪しました。そして、その「分捕り品」で、人の心をも奪ったのです。
多くの人が「分け前」にあずかりました。そして「分け前」のために従ったのです。
これが「卑劣な者」のやり口です。
彼は「約束」「同盟」など守りません。彼は「裏切り者」「詐欺師」なのです。
そして、人の心を「物」と「事」で支配します。
彼は「分捕り品」を惜しみなく与えたと言われています。
「富」「領地」「昇進」を与えることとで「味方」を増やします。自分に味方する者は「優遇」するのです。
これは、まさしく「サタン」のやり口です。
「これをあげよう。だから、一緒においで」と言うのです。
しかし、信じてはいけません。
悪魔は「偽り者」なのです。
目の前に広げられた「物と事」に飛びつく前に、その背後の「ヒモ」を見なさい。
敵があなたの目に置いた贈り物は、素晴らしく魅力的に見えるかもしれません。しかし、あなたは一生「奴隷のくびき」を負うことになります。
そして、その行きつく先は「滅び」です。
イエス様は言われました。
「あなたについて行きます」という人に向かって、イエス様は「わたしには枕するところもないよ」と言われました。
むしろ、イエス様は「ついて来たいなら、自分を捨て」なさいと言われました。
厳しいですね。
しかし、イエス様が「まず先に」すべてを捨ててくださったことを、私たちは忘れてはなりません。
そして、また「わたしのためにいのちを失う者はそれを見出す」と言われたことも忘れてはなりません。
イエス様に従うならば、その行きつく先は「永遠のいのち」です。
私たちも揺さぶられます
敵は、あらゆる場面で聖徒に揺さぶりをかけてきます。
その昔、ソドムの王にアブラハムも揺さぶられました。その背後に悪しき者がいたことは明白です。
これは、アブラハムが戦って、ソドムの人や富を取り戻したことに対する、当然の権利のように思えます。しかし、私たちの信仰の父は言いました。
アブラハムは、ソドムの王のために戦ったのではありません。報酬のためでもありません。
私たちは「誰が」自分を富ませるのかを、はっきりさせておかねばなりません。私たちを「生かす」のは誰でしょう。私たちは、何によって生きているのでしょう。
私たちは「神の口からでることば」によって生かされているのです。すべての必要は「御父」から来ます。
サタンは、イエス様のことさえ誘惑しました。
「ひれ伏して拝むなら」とサタンは言いました。敵の差し出す「報酬」を受け取ることは、その相手に「ひれ伏す」事です。なぜなら、それは「与えられる」ものだからです。
イエス様は言われました。
私たちが「ひれ伏して拝む」のは、唯一の主なる神だけです。
そして、私たちが「ひれ伏して拝む」主なる神は、私たちに「すべてのもの」を与えて下さいます。御父は、愛する御子をさえ惜しまずに与えてくださいました。
私たちは、ただ主だけを礼拝し、主にだけ仕えるのです。
この世にはびこる「卑劣な者」のやり口に、決して飲み込まれてはなりません。
終わりは、まだ定めの時を待たなくてはならない
さて、うんざりするほど長い「北の王」と「南の王」の争いも、そろそろ終わりに近づいています。
彼らは、互いに何度も決着を付けようと画策しますが、それは成りません。
勝ったり負けたりを繰り返しますが、どちらかが「完全に支配する」という状態にはなりません。
「北の王アンティオコス4世」は、大軍勢を率いて「南の王プトレイマイオス6世」に立ち向かいます。
「南の王プトレイマイオス6世」も、それ以上の大軍勢を率いて戦いますが、抵抗することができなくなるのです。その背後には裏切りがありました。
「彼のごちそうにあずかる者たち」とは、南の王の部下たちのことです。臣下たちの進言が、彼を失敗に導いたと言われています。
2人の王とは「北の王アンティオコス4世」と「南の王プトレイマイオス6世」のことと思われます。
仲良くするふりをして、お互いが腹の中で悪事を企んでいる姿が記されています。
主は、何が起こっているのかだけではなく「何を思っているのか」ということも見通しておられるのです。
この「二人の王」の悪事は、どちらも成功しません。
それは「定めの時」を待たなくてはならないからです。
宝はうちにあるのです
さて、ややこしい歴史の話はここまでです。次回は、アンティオコス4世の非道な行いを見ることになります。
少しは歴史の話もしますが、ややこしくはありません(笑)
私たちは、アレクサンドロス大王が逝去したBC323年ごろから、アンティオコス4世の時代BC160年ごろまでの歴史をザっと見て来ました。
彼らは、世代を超えて、ずっと争いを繰り返しています。この戦いは無意味であること知らないからです。
彼らは「定めの時」があることを知りません。そして、その「定めの時」とは彼らの「終わり」のときです。
彼らの戦いは、どちらかの勝利によって終わるのではありません。
この後、「ローマ帝国」がやってきて、彼らの戦いは「終わる」のです。「ローマ帝国」が来ることは「定められた」ことなのです。その「時」さえも定められているのです。
本当の終わりの時、さまざまな災いが起こります。しかし、それらは、すでに定められています。
もうすでに、「用意」がなされているのです。「その時、その日、その年」のために御使いが用意されていると記されています。すべてのことが「偶然」に起こるのではないのです。
「いつ」であるかは分かりませんが「終わりの時」は来ます。
主は「その時」「その日」「その年」を定めておられるのは確かです。
戦いは「勝敗」がついて終わるのではありません。
地上のいかなる戦いの「勝敗」も、最終的な決着となることはありません。最終的な決着は「主イエス」によってもたらされます。
「鉄と粘土の足」は、最後の世界帝国を表しましたね。それは「ローマ帝国」のような国です。
反キリストが君臨する「世界帝国」です。
地上は「反キリストの国」となります。彼は「勝利者」に見えるでしょう。しかし、それは「見える」だけです。
「その時」「その日」「その年」が来たならば「人手によらずに切り出された石」によって粉々に砕かれるのです。
天においても地においても「最終的な勝利」は、「ほふられた子羊」のものです。イエス様こそ勝利者です。そして、その勝利はすでに定められていることなのです。
私たちは「終わりの時」まで多くの戦いを目にすることになります。あわや世界戦争か、と思うような戦いに発展するかもしれません。しかし、そうはなりません。「反キリスト」が支配する国が来るからです。それは、見せかけの平和な国です。
また、世界だけではなく、私たちの周囲にも様々な形で「争い」が起こる事でしょう。私たちも「小競り合い」に巻き込まれて傷を負う日もあるでしょう。また平穏無事に過ごせる日もあるでしょう。
しかし「見えるところ」に騙されてはいけません。「見えるもの」で一喜一憂するような生き方をしているならば、私たちも騙されてしまうでしょう。
多くの「裏切る者」や「詐欺師」が現れます。世の中は「だましたり、だまされたり」するのです。
私たちは「だます」ことは、もちろんしません。そして「だまされる」こともないようにしましょう。
暗い場所では、悪しき者の声が響くものです。しかし、外側から聞こえる声に導かれてはなりません。
私たちは、自分の宝がどこにあるのかを知っていなければならないのです。
覚えてください。
「宝」は、あなたの中にあるのです。それは、外側にはないのです。
ゆえに、私たちは告白します。
「見ゆるところはいかなるも」です。私たちは「見ゆるところ」によって歩みません。
私たちは、途方に暮れても、行き詰ることはありません。
迫害されても、見捨てられることはありません。
倒されても、滅びることはないのです。
そのように「見えても」、決して「見えたとおり」にはなりません。
ですから「もうダメだ」と思うときも忘れてはなりません。
あなたの内側に「宝」があるのです
外側のいかなるものも、あなたを滅ぼし尽くすことはできません。外側の変化によって、あなたの内なる「宝」が変化することは決してありません。
私は、きらびやかな金の器ではありません。ただの「土の器」です。しかし、私のうちには「宝」があります。
その「宝」によって、この土の器から「測り知れない力」が出るのです。
終わりの時代には、まことしやかに「だます者」たちの声が響くでしょう。「見た感じよい」と思われるものに飛びついてはいけません。「見た感じ駄目だ」と思っても、それは「終わり」にはなりません。
聖霊様が「住まわれる」とは、なんと素晴らしい恵みでしょう。私たちは「外側」に望みを見出す必要はないのです。
「勝利」は、すでに主のものです。
すべての上に座しておられ、すべてを計画し遂行される方を信じて歩みましょう。
祝福を祈ります。