【ダニエル9章】その② 70週が定められています

鹿の角

ダニエル9:24
あなたの民とあなたの都については、七十週が定められている。
それは、背きをやめさせ、
罪を終わらせ、
咎の宥め行い、
永遠の義をもたらし、
幻と預言を確証し、
至聖所に油注ぎを行うためである。

ガブリエルがやって来ました

ダニエル9:3
そこで私は、顔を神である主に向けて断食をし、荒布をまとって灰をかぶり、祈りと哀願をもって主を求めた。

ダニエルは「預言者エレミヤにあった主のことば」によって、エルサレムの荒廃の期間が「70年」であることを悟りました。

そこで、ダニエルは「祈りと哀願」をもって主を求めたのです。

ダニエル9:20
私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、

ダニエルは、祈りを続けていました。まだまだ続けて祈るつもりであったのです。しかし、そのダニエルの祈りは妨げられました。

ダニエル9:21
すなわち、私がまだ祈りの中で語っていた時、私が初めに幻で見たあの人ガブリエルが、すばやく飛んで来て私に近づいいた。それは夕方のささげ物を献げるころであった。

ダニエルの祈りを妨げたのは「御使いガブリエル」でした。

「私が初めに幻で見た」というのは、8章の幻のことですね。

ダニエル8:15
私ダニエルは、この幻を見たとき、その意味を理解したいと願った。すると見よ、勇士のように見える者が私の正面に立った。

雄羊の角について「その意味を知りたい」と願ったダニエルの前に現れた「勇士のように見える者」がガブリエルです。

そして、今、またダニエルの前にガブリエルが現れました。恐らく同じ姿で「勇士のように」現れたのでしょう。

ダニエル9:22
彼は私に悟らせようとしてこう告げた。「ダニエルよ。私は今、悟りによってあなたを賢明にさせようとして出て来た。

ガブリエルは、ダニエルに「悟りを与え、賢明にするため」に来たのです。御言葉の光が差し込むと人は悟りを得て賢明になります。ガブリエルは「主のみことば」を携えてやって来ました。

ダニエル9:23
あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが出されたので、私はそれを伝えに来た。あなたが特別に愛されている者だからだ。そのことばを聞き分けて、その幻を理解せよ。」

ダニエルが「祈り始めたとき」に「一つのみことば」が主から発せられたのです。

素晴らしいですね。ダニエルの祈りは「始めから」聞かれていました。そして「祈り終える前」に、すでに「みことば」が出されたのです。

さて、ガブリエルが来たのは「一つのみことばが出された」ためです。主は、ダニエルに「知らせたい」「悟らせたい」ことがあったのです。

「あなたが願いの祈りを始めたとき」と言うことは、ダニエルの「祈り」に関係することであるのは確かでしょう。

ダニエルは「エレミヤの70年」を知って「自分の民イスラエル」について祈っていたのです。主は「イスラエル」についての「ひとつのことば」をガブリエルに持たせて遣わされたのです。

あなたの民とあなたの聖なる都について

ダニエル9:24a
あなたの民とあなたの聖なる都について、70週が定められている。

さて、ここからは「聖書預言の頂点」と呼ばれる、所謂「ダニエルの70週」について記されています。

今回は、70週の預言のすべては学びません。「最後の1週」については次回に学びたいと思います。

さて、ここで、私たちが、まず覚えておかなければならないことがあります。

それはこの預言が「あなたの民とあなたの聖なる都について」であるということです。

「あなたの」とは、もちろん「ダニエルの」という意味です。

ダニエルの民とは「イスラエルの民」のことです。そして、ダニエルの聖なる都とは「エルサレム」のことです。

この預言の中心は「イスラエルの民とエルサレム」です。それは「霊的イスラエル」のことはありません。本当のイスラエルについての預言です。

これを「教会」に当てはめて考えると、終末預言の全体を間違って解釈することになってしまいます。

イスラエルとエルサレムについて、ダニエルは願いの祈りをささげていました。

それは「もうすぐ定められた70年が来ます。どうかあわれんでください」という願いでした。

主は、そのダニエルに「70年捕囚の解放」以上のことを示されたのです。それは、本当の、そして最後の解放についてです。イスラエルが完成することについての「ことば」を与えられたのです。

ダニエルに与えられた「70週」の預言は、聖書の中で「最も範囲が広い」つまり「長い期間について」の預言です。そして、最も混乱する預言でもあります。

全部を理解することは困難です。諸説ありすぎて何が本当なのか見極めるのも大変です。

しかし、ガブリエルは「みことばを聞き分け、その幻を理解せよ」と言っていますから、私たちもできるだけ理解するように努めてみましょう。

七十週は490年です

ダニエル9:24a
あなたの民と聖なる都について、七十週が定められている。

さて、まず70週の解釈から考えてみましょう。

「定められた70週」は、大方の見解では「490年」を表すとされています。「490年」を表すということについては意見の相違は、ほぼありません。

しかし、なぜ「490年」を表すかという説明については諸説あります。

全部の説を紹介することはできませんので、一応、2つだけ紹介します。

「七十週」の文字通りの意味は「七個群」あるいは「七つずつが七十ある」ということである。この「七個群」は、時間、日、週、月、年などに用いられている。これは「一ダース」という言葉に似ており、数量に適用される。この文章の文脈から、私たちは、これは七年の七十倍という意味であることがわかる、
ダニエル書 H・Sペイズリー著 伝道出版社

「七十週」の「週」と訳されている語は、「七つ」で「一つ」と言う意味です。「1ダース」が「12個」を表すように、「1週」は「7つ」を表すわけです。

まあ、その「7つ」は「7日」とも言えるし「7年」とも言えるわけですが。

上記の引用では「文脈から、七年」と受け取ると解釈されています。ゆえに「7年×70」で「490年」とう計算です。なんとなく納得しますね。

ただ、この「7つ」を「7日」と解釈しても「490年」を導き出せるという説もあります。こちらの説の方が一般的です。

民数記14:34
おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。

「7つ」を「7日」であると解釈します。

つまり「1週」を「7日間」とするということです。これは現代人には分かりやすいですね。

そして、神様の「日にちの数え方」を当てはめるのです。

主は「一日を一年と数えて」と言われました。ですから、「7日」を「7年」と解釈するわけです。

後の計算は同じです。いずれにしても「70週が490年」であることは同じなのです。

70週の終わりは千年王国の始まりです

ダニエル9:24
あなたの民と聖なる都について、七十週が定められている。
それは、背きをやめさせ、
罪を終わらせ、
咎の宥め行い、
永遠の義をもたらし、
幻と預言を確証し、
至聖所に油注ぎを行うためである。

70週が定められた「目的」について語られます。

  1. 背きをやめさせること
  2. 罪を終わらせること
  3. 咎の宥めを行うこと
  4. 永遠の義をもたらすこと
  5. 幻と預言を確証すること
  6. 至聖所に油注ぎを行うこと

私は、これらの6項目は「まだ成就されていない」という説に同意しています。

ただ、上記、1~3の項目については「キリストの初臨」のときに成就したという説には半分同意します。

確かにイエス様は、十字架で「背きの罪」を負われました。私たちは、イエス様を信じることによって救われます。その救いにあずかるのは「ユダヤ人」も「異邦人」も同じです。信じるならば「誰でも」救われるのです。

ゆえに、神様の側においては「罪を終わらせ」「咎の宥めを行うこと」はすでに成ったと言っても間違いではないと思います。なので、1~3の項目はすでに「成就した」という解釈に半分同意しているわけです。

しかし、イスラエルの側から見るならば、それはまだ「成就していない」と言わざるを得ません。

イスラエルの泉が開かれるのは、まだ先です

イスラエルは「みな救われる」とは「民族的救い」であると私は思います。

「イスラエル」は、まだ「背いたまま」です。イスラエルの救いは「これから」来ます。

ゼカリヤ13:1
その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

「その日」とは終わりの日のことです。その日、主は「罪と汚れをきよめる一つの泉を開かれる」のです。その日、彼らの目は開かれます。

ゼカリヤ12:10
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。

イエス様が再び来られる、その日、彼らは「自分たちが突き刺した者」を見て激しく泣きます。それは「わたし」つまり「イスラエルの神である主」であったのだと知って激しく泣きます。

主イエスこそ「罪と汚れをきよめる泉」であることを知るようになります。その日、主イエスの十字架の血潮が「自分たちのため」であったことをイスラエルは知ります。

しかし、それは「まだ先」のことです。70週が終わる時に、それは成就するのです。

イエス様の再臨によって「すべて」が成就します

主の再臨によって「すべての預言」は成就します。

千年王国が始まります。そして、永遠の義がもたらされます。新天新地が来る前に「ひと騒動」ありますが、主イエスの統治に変わりはありません。

主イエスの再臨によって「幻と預言が確証」されます。私たちは、すべてが「記されたとおり」であったことを誉めたてるでしょう。

千年王国では「神の神殿」が回復します。その「至聖所」に油が注がれます。千年王国の間、神殿のある「エルサレム」は世界の中心となります。

みことばが「エルサレム」から出るので、人々はみな「エルサレム」にやって来るのです。

イザヤ55:11
そのように、私の口から出るわたしのことばも、わたしのところに空しく帰ってくることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、私が言い送ったことを成功させる。

主のみことばは必ず成ります。

私たちは、必ず、御前に立ちます。そして、主のみことばを力の限り誉めたたえるようになります。

70週の最後は「千年王国」の始まりなのです。

「千年王国」がないという説には、全く同意できません。黙示録を読めば明確に分かります。

黙示録20:6
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に関して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。

新天新地が来る前に「この地上」に千年王国は確立されます。

そして、イザヤ書やエゼキエル書に記されたイスラエルに対する約束は、千年王国において「ことごとく」成就すると私は信じています。

主は必ず約束を守られます。

イスラエルには、その前に「70週」が定められているのです。

そして、この「70週」は「6つのこと」を成し遂げるための大切な期間なのです。

それは、背きをやめさせ、
罪を終わらせ、
咎の宥め行い、
永遠の義をもたらし、
幻と預言を確証し、
至聖所に油注ぎを行うためである。

イスラエルは70週を経た後、必ず、このようになるのです。

70週は三区分できます

ダニエル9:25
それゆえ、知れ。悟れ。
エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが7週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。

ダニエル9:26
その六十二週の後、
油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。その終わりには洪水が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。

ダニエル9:27
彼は一週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。
忌まわしいものの翼のうえに、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。

「ダニエルの70週」の預言は、「三区分」することができます。

  1. 最初の7週
  2. その次の62週
  3. 最後の1週

合わせて「70週」ですね。

この区分を一つずつ考えていきましょう。今回は「1」と「2」の前半部分までを考えていきます。

70週のスタート(起算点)はいつか?

ダニエル9:25
それゆえ、知れ。悟れ。
エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが7週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。

「それゆえ、知れ、悟れ」と言われていますから、とても注意深く知ろうとする必要がありますね。

まず「エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから」に注目しましょう。

これが「スタート」の合図です。

バビロンによって「エルサレム」は荒らされました。そして、バビロンが滅びた後、ダニエルが祈り求めたように「エルサレムが復興」されます。

「エルサレムを復興し再建せよ」との命令が出されたときから「70週」が始まります。

それでは「エルサレムを復興し再建せよ」と言う命令はいつ出されたのでしょう。分かりやすいと思われる説を一つ紹介します。

それは「ネヘミヤ記」の時代のことです。

ネヘミヤ1:5
王に答えた。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください。」

ネヘミヤの願いは「ユダの地、先祖の墓のある都(エルサレム)を再建させてください」と言うものです。

「アルタクセルクセス王」は、その願いをかなえてくれました。

ネヘミヤ2:1
アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月に、王のぶどう酒が出されたとき、私はぶどう酒を取り、王に差し上げた。それまで、私は王の前で気持ちが沈んでいたことはなかった。

「何か心配なことでもあるのか?」という王の気遣いを受けて、ネヘミヤは願い事を申し出たのです。そして、それはかなえられました。

それが「アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月」の出来事だったのです。多くの人が、この日を起算点であると考えています。

さて、勅令は、これ以前にも数回発令されています。

それなのに「なぜ、ネヘミヤがもらった勅令を起算点にするのか?」と思われるかもしれませんね。

その理由は、ガブリエルのことばをよく読むと理解できます。

70週の起算点は「エルサレムを復興し、再建せよ」という命令がでてからだと記されています。「エルサレムの再建」が注目ポイントです。

確かに、キュロス王、ダレイオス王、さらに上記のアルタクセルクセス王の勅令が、これ以前に出されています。(アルタクセルクセス王はエズラにも勅令を与えているのです)

それらは、すべて「エズラ記」を読むと確認できます。

一つだけ引用しましょう。

エズラ1:3
あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。

これは、キュロス王の勅令です。(その他の王の勅令もエズラ記で確認できます。エズラ5章・エズラ7章を読んでください)

キュロス王の勅令は「イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ」です。

エズラ記における、他の王たちの勅令も「主の宮を建てるようにせよ」という内容です。

つまり「神殿建設の許可」であって「エルサレムの都の再建許可」ではないということです。

ネヘミヤ1:3
彼らは私に答えた、「あの州で捕囚で生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」

ネヘミヤは「崩された城壁」と「火で焼き払われたままの門」のことを聞いて心を痛めたのです。ゆえに「都の再建許可」を王に願い出ました。

ネヘミヤ1:5
王に答えた。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください。」

エレミヤがもらったのは「都(エルサレム)の再建許可」です。

ゆえに、この勅令こそ「エルサレムを復興し、再建せよとの命令」であると考えられるということです。

もちろん、この説が「絶対に正しい」と言い切ることはできません。

「キュロス王の勅令こそ起算点とすべき」と主張している先生方の意見も「なるほどな」と思うものです。

詳しくは書きませんが、根拠とされる御言葉を一つだけあげておきます。

イザヤ44:28
キュロスについては、「彼はわたしの牧者。私の望むところをすべて成し遂げる」と言う。エルサレムについては「再建される。神殿はその基が据えられる」と言う。

この「起算点」については、今のところ「断定」はできないけれど、たぶん「こんな感じだろう」という理解で充分なのかなと考えています(笑)

興味のある人は学びを深めてみてください。

翻訳の「。」と「と」について

さて、問題はここからです。

ダニエル9:25
それゆえ、知れ。悟れ。
エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが7週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。

新改訳の翻訳は「再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが7週。」となっています。

この翻訳を素直に読むならば「命令がでてから、7週目に油注がれた者、君主が来る」と読めますね。

これが「混乱のもと」なのは確かです。

「油注がれた者、君主」とは「イエス・キリスト」のことであると私は理解しています。ほとんどの聖書教師の意見も同じです。

しかし、それだと「再建命令が出てから49年後」にイエス様が来られるということになってしまいます。

「アルタクセルクセス王の第二十年」とは、だいたいBC445年ごろと言われているのですから、まったく辻褄が合わないことになります。

この「。」つまり「句読点」が曲者らしいのです。

これは「。」とすることもできますし「と」、つまり英語で言うなら「and」と訳すこともできる文字だということです。

確かに、口語訳聖書では、「と」と翻訳されています。

ダニエル9:25(口語訳)
それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。

ちなみに英語の聖書(NIVとKJV)では「and]と訳されています。確かに英語から翻訳された注解書には、この部分に関する「混乱」を見ることはありません。(私が読んだ限りにおいてですが)

私にはヘブル語のことはよく分かりません。何か「。」とした方が良いと思われる文法上のことがあるのかもしれません。

しかし、ここを「。」とすると、全く意味が分からなくなりますので、今回は「口語訳」にしたがって解釈したいと思います。

さて、そうするとこのように解釈することになりますね。

「再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが『7週と62週』、苦しみの期間の間に、広場と堀が造り直される。」

つまり、油注がれた者、君主と呼ばれる方は「再建命令が出てから『7週と62週』後に現れる」ということになります。

足し算すると「69週後」です。

最初の区分である「7週」は、「神殿と都の再建」が行われる期間であると思われます。一応、区切りはあるけれど時代は続いていきます。

次の62週の間は、いわゆる「中間時代」のことであると思います。つまり、聖書に記載されていない時代のことです。

マラキ書からマタイの福音書の間のことは、聖書には「わずか」しか記されていません。それもダニエルの預言で語られているだけです。

その間、イスラエルには「苦しみ」があり「不安な時代」を過ごします。ギリシャ帝国の支配からローマ帝国の支配に移る時代です。11章の学びで少し触れます。

その時代に「7週と62週」つまり「69週目」が来ます。つまり「メシア」が来られるということです。

イエス様が来られ、断たれます

ダニエル9:26
その六十二週の後、
油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。その終わりには洪水が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。

「その62週の後」すなわち「7週と62週の後」です。

ある博士の計算によると「アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月」から「69週後」とは、イエス様が「エルサレムに入場された日」とぴったり同じだと言うことです。

一年を「360日」で計算し「うるう年」なども加味したら、ちょうど「その日」になるというわけです。

実際、私も計算してみました。苦手だけど頑張りました。博士の言う通りの結果でした。私と同じように、多くの人が「計算」をして確認したことでしょう。だからこそ、この「計算がぴったり合う」という事実は結構広まっているのです。

しかし、それでも立ち止まって、ちゃんと考えてください。私は批判したいわけでも否定しているわけでもありません。ただ、考えて欲しいのです。

確かに「計算」は合います。びっくりしますよね。そして、預言の正確さに感動してしまいますよね。

しかし、冷静に考えてみましょう

計算が「合う」ことは間違いありません。

だけれど、起算点とする「アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月」が本当に「BC445年の3月14日」なのかは確認のしようがないのです。「BC445年」という年代そのものに「諸説ある」こともまた事実なのです。

「油注がれた者メシア」としてのイエス様の活動を「聖霊がくだられた日」とするべきだと言う意見もあります。別に私は、その意見を支持してはいませんが、そういう意見もあるのです。

多くの意見があるのです。そして、それらの意見を聞くと、たいてい「そうかもしれないな」と思うものです。先生方は、皆さん、ちゃんと学びをされて、その上で、意見を発表しておられるので説得力がありますよね。

私も、どの本を読んでも、どのメッセージを聞いても、「そうかもしないな」と常に心が動きます(笑)

つまり、何が言いたいのかと言うと…

どんなに偉い先生が「計算がぴったり合う」「これが正しい解釈だ」と言っても「みことば」で確証できないのならば、それを根拠にして預言の解釈をしてはならないと言うことです。

「そうかもしれないな」と思う程度で抑えてください。しっかり「みことば」で確認してから「信じて」ください。確認できなければ、ずっと「そうかもしれないな」でいいのです。そのうち分かるようになるでしょう。

これが言いたいがために、ややこしい起算点の話をわざわざしたのです。とても疲れました。

何度も言いますが「預言」は絶対に「私的解釈」をしてはならないものです。これだけは忘れてはなりません。

さて、先に進みましょう。

「69週目」に「油注がれた者」が来られます。しかし、「油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない」と言われます。

主イエスは「初臨」のときには何も得られませんでした。むしろ「すべてを与えられ」るために来られたのです。

イザヤ53:8
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。

イエス様は「断たれ」ました。そして「彼には何も残り」ませんでした。

私たちは、イエス様が何を成してくださったのか知っています。

神のあり方を捨てて、ご自分を空しくしてくださいました。そして「十字架の死」にまで従ってくださいました。

私たちは、イエス様が「断たれる」ために来てくださったことを心に刻みましょう。

私たちも悟りによって賢明にされます

さて、ずいぶん長くなってしまいました。疲れましたね。この続きは次回学びたいと思います。

ダニエル9:22
彼は私に悟らせようとしてこう告げた。「ダニエルよ。私は今、悟りによってあなたを賢明にさせようとして出て来た。

ガブリエルは「悟りによってあなたを賢明にさせようとして出て来た」と言いました。

私は、今、この預言を学ぶ私たちも同じように「悟りによって賢明に」なれると信じています。

詩篇119:130
みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。

確かに、ダニエル書の預言は「難しい」です。

そして、考えても、結局、「よく分からない」というのが結論なのです。

しかし、それでも、主は私たちに「知れ、悟れ」と言ってくださっているのです。

「みことばの戸」は開かれています。そして、そこから「光が差す」のです。

「預言の内容」を完全に解き明かすことができなくても「学ぶ」ことには意味があると私は信じます。

「光が差す」と「悟りが与えられる」のです。

そして、その悟りは、私たちを「賢明」にするでしょう。

「賢明」とは広辞苑によると「賢くて道理に明らかなこと」「適切な判断や処置が下せるさま」です。

私は、賢明になって「適切な判断がくだせる」ようになりたいと願います。

「みことばの戸」は開かれています。

私たちには「聖書」がありますし、導き手である「聖霊様」がおられます。

戸を閉ざしてはなりません。理解できなくても、学び続けましょう。

御言葉の学びは楽しいですよね。一つでも心に留めることができれば喜びがわきあがります。

一緒に続けて学んでいきましょう。

祝福を祈ります。