ダニエル10:2
そのころ私ダニエルは、三週間の喪に服していた。
生かされていることには意味があります
ダニエル10章を学びます。
10章から12章までは「一つの幻」です。そして、ダニエル書における「最後の幻」です。
10章は「幻の前に」という感じでしょうか。11章に「幻」が記されていますが、その「幻」が与えられる前に何があったのかが10章に記されています。
ダニエルが「最後の幻」を受け取ったのは「キュロス王の第三年」のことです。
「ペルシャ帝国」の時代です。
「銀の胸と両腕」「熊に似た獣」「二本の角を持つ雄羊」の時代です。これらは、すべて同じ国を表していましたね。
ダニエルは、バビロンが滅んだ後も、その次の「世界帝国ペルシャ」に仕えて生きていました。
ダニエルは「キュロス王の元年」まで「元バビロンの宮殿」にいたということです。
これを「キュロス王の元年」まで働いていたと解釈する人もいます。
その解釈に従うと、ダニエルが「最後の幻」を与えられたのは「キュロス王の第三年」ですから「退職して2年後」ということになります。
ダニエルが完全に退職していたかどうかは分かりません。けれど、要職からは退いていたであろうと思います。
「大臣」とか、そのような責任のある役職には就いていなかったでしょう。
思えば、少年の時にバビロンに連れて来られてから長い年月が過ぎました。その間に自分を捕虜としたバビロンの滅亡を見ました。ダニエルは90歳を超えるぐらいの年齢であったと考えられます。
「神の人」には、生きている限り使命があります。聖徒はみな「生かされている」のです。
アブラハムがカナンの地に来たのは75歳でした。100歳でイサクが与えられました。
モーセが「今、行け」と召命を与えられたのは80歳でした。120歳まで生かされてイスラエルを導きました。
使徒たちの中で最も長生きであったヨハネが黙示録の啓示を与えられたのは90歳前後のときです。
使徒ヨハネの兄弟ヤコブは、使徒たちの中で最初の殉教者です。兄弟であっても「召される時」は同じではありません。ヤコブの殉教に意味があったように、使徒ヨハネが生かされたことにも意味がありました。
私たちは、主が定められた時を「生かされて」います。そして、「生かされて」いるなら「意味」があるのです。主は、必要のないことはなさらない方です。
ダニエルが生かされていることにも大きな意味があったのです。
ティグリス川の岸辺で
そのころとは、もちろん「キュロス王の第三年」のことです。
ダニエル9章で「捕囚の期間が70年」であることをダニエルが知ったと記されていました。
イスラエルが捕囚から解放されて、エルサレムに帰還してもよいとの勅令が出されたのは「キュロス王の第一年」です。
ですから、ダニエルが「最後の幻」を見たときには、すでに捕囚期間は終わっていたのです。
「帰還命令」が出てから、二年が過ぎていました。ダニエルは、エルサレムに帰還することはありませんでした。伝承によると、ダニエルは、このまま一生、エルサレムに帰ることはなかったようです。
ダニエルが「喪に服していた」のは、何か悲しみがあったからだと推測できます。もしかすると、帰還民たちから悲しみの知らせが届いていたのかもしれません。
第一回目にエルサレムに帰還した全会衆は「四万二千三百六十人」であったとエズラ記に記されています。捕囚にあった人数を思えば、少ないかなという印象を受けます。
彼らは「主の宮を建てるために」帰還したのです。しかし、どうも工事は思ったようには進みません。
工事はなかなか始まりませんでしたし、始まっても多くの妨害にあって思うようには進みませんでした。
おそらく、ダニエルはその現状を知ったのでしょう。
エルサレムのため、神殿のため、帰還民のため、主の御前にへりくだって御心を求めていたのかもしれません。
ダニエルが何の目的で「喪に服して」いたのかは分かりませんが、満三週間、部分断食をしながら祈っていたことに間違いはありません。
「満三週間」という数字を覚えていてください。後で、その期間の意味が分かりますから。
祈りの重荷が与えられたのだろうと思います
「第一の月」とは、ユダヤの暦では「ニサンの月」のことです。「ニサンの月の十四日」には「過ぎ越しの祭り」があります。イエス様も、弟子たちと「過ぎ越し」を祝われました。
ダニエルは「満三週間、ごちそうを食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった」のですから、出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」の間も「喪に服して」いたことになります。
その後に続く「種を入れないパンの祭り」の間も「喪に服して」いたことになります。
「肉もぶどう酒も口にしなかった」とは、過ぎ越しの食事にあずからなかったことを意味するのかもしれません。
身を汚したわけでもなく、自らの意志で「主の祝祭」を「喪に服して」過ごしたわけです。よほどの「祈りの重荷」が与えられていたとしか考えられません。
ダニエル自身は与えられた「祈りの重荷」の意味のすべてを理解していたわけではないでしょう。それでも、満三週間、主の御前にへりくだっていたのです。
あなたは、主からの「祈りの重荷」を感じたことがあるでしょうか。
主が「何か」を示しておられる時には、意味が分からなくてもひざまずき祈るべきです。そのとき「肉」が邪魔するならば「肉」を弱くするために「断食」という手段を取ることも必要なのかもしれません。
私は「断食」はあまり好きではありません(笑)
しかし、私の「肉」があまりにも強すぎて「霊」がしょんぼりしているならば、少し「肉」に大人しくなってもらう必要があります。
「肉」に大人しくなってもらうのは簡単です。元気を与えなければよいのです。「部分断食」は、有効な手段であるように思います。
ダニエルのように「ごちそうを食べず、肉もぶどう酒も口にせず」というやり方もあるということです。「おやつ」を食べる時間を祈りにささげるというのも一つの方法かもしれませんね。
けれど、どうか誤解しないでください。
「食べない」ことは「霊的」になる方法ではありません。
ある聖徒の証です。
彼は、よく断食をする人でした。しかし、ある時、イエス様がこのように言われたと感じたそうです。
「あなたは、よく断食をするが、それ以外の日は好きなものを好きなだけ食べているね。いつでも、断食をしているような霊的な状態を保ちなさい」
これは、耳が痛いことばです(笑)
大切なことは「食べない」ことではなく「霊を強める」ことなのです。自分が「霊的な存在」であることを認識することです。「断食」を目的としてはなりません。
もし断食して「肉」を大人しくさせようと思うなら、同時に「霊」を元気にする必要があります。
「霊」の食物は「みことば」ですから、私たちは「断食」や「部分断食」をするときには、たくさん「みことば」を食べなければなりません。聖書を学ぶだけではなく、主の口から出る「ことば」をたくさん食べなければなりません。そのために「祈る」ことは必須です。
ダニエルは、自分で知らないうちに「霊的戦い」に参戦していたのですから、「霊」が元気でなくてはならなかったのでしょう。これは、後の節を学ぶと分かります。
主は、ダニエルに「祈りの重荷」をお与えになりました。そして、ダニエルは、それに正しく応答したのです。
私も、主が「祈りの重荷」をくださったなら、即座に応答できるようになりたいと切に願います。「御霊によって」「御霊に導かれて」祈る者とされたいと願います。
私たちは、切に御霊に満たされることを求めて生きましょう。
ダニエルの見た「一人の人」
さて、もう一度、ダニエル10章4節を見ましょう
ダニエルはティグリスという大きな川の岸にいました。
これは、幻ではありません。ダニエルは、本当にその川の岸にいたのです。ダニエルの他にも数名が一緒にいたようです。
ダニエルは、川の岸辺で「一人の人」を見ました。
亜麻布の衣を着て、ウファズの金の帯を締めている人でした。
ダニエルは一目で、この帯は「ウファズ産」だと分かったのですね。「ウファズ」は有名な金の産地ですから「上等な金の帯」を締めた人であったということです。
おそらく「輝き」が違ったのでしょう。
さて、これがダニエルの見た「一人の人」の描写です。
どこかで読んだことのある姿だとは思いませんか?
これは、使徒ヨハネがパトモス島で見た「人の子のような方」つまりイエス様のお姿です。「ウファズ」とは書いてありませんが「金の帯」は締めておられますね。
もう少し続けて見てみましょう。
ダニエルの見た「一人の人」の目は燃えるたいまつのようでした。
ヨハネが見た「人の子のような方」の目は燃える炎です。同じですね。
ダニエルと使徒ヨハネでは「使用している単語」は違いますが、ほぼ同じようなことを言っていると考えて間違いはないでしょう。
「真鍮」は、新品の五円玉のイメージです。「青銅」は、新品の十円玉のイメージです。
「稲妻のような顔」と「強く照り輝く太陽のような顔」は、どちらも「激しく光っている」ということでしょう。
「群衆のような声」と「大水のとどろきのような声」は、両方を想像してみてください。
どちらも「ゴォー」とか「ウォー」などという擬音のイメージですよね。
私は、ダニエルが見た「一人の人」は、使徒ヨハネが見た「人の子のような方」つまり主イエスではないかなと思っています
もちろん、「一人の人」は御使いである、イエス様ではありえないという意見があることも分かっています。
そのことについては、話を進めていく中で説明したいと思います。
そこには見えない戦いがありました
このようなことがあるのです。他の人たちと一緒にいる中で、一人だけが「幻」を見るというようなことが実際にあるのですね。
ダニエルと一緒にいた人々は何も見ませんでした。しかし、「確かに何かが起こった」ことは証言してくれるでしょう。
そのように考えてみると、この幻の重要性が分かるような気がします。
ダニエルは10章の初めから「そのことばは真実で」と強調しています。「確かである」「真実である」「間違いないのだ」ということを本当に伝えたいのでしょう。
つまり、それだけ「この幻」に関することは重要であるということです。
「深い眠り」という言葉は、エバを造られる際、主がアダムに下された眠りを連想させます。これは「新しい創造」に関係のある幻なのかもしれません。
前の訳では「意識を失って」と訳されています。ダニエルは、気を失ったような状態だったのでしょう。
ダニエルは、からだ中の力が抜けていくのを感じました。「内からは力が抜け」とは、直訳すると「力が残らず」です。恐らく膝から崩れ落ちたのでしょう。
ダニエルに触れた手は、さきほどの「一人の人」の手ではないと私は思います。これは「御使い」です。
天では戦いが起こっています
ダニエルを揺さぶった人は言いました。
語っている「彼」は、ダニエルに遣わされたのです。何かダニエルに「語ることば」を携えているのです。
そして、それは「立ち上がって」聞かなければならないものでした。
ダニエルは震えながらではありますが立ち上がりました。
「彼」が来たのはダニエルのことばのためです。
ダニエルの祈りは「三週間前」に、その「最初の日から」聞かれていました。
確かに、ダニエル9章では御使いガブリエルは「ダニエルが願いをささげていたとき」すでに到着していました。主は、私たちの祈りを「最初の日から」聞いていてくださる方です。
しかし、それではなぜ、すぐに祈りの答えは届かなかったのでしょう。
ダニエル10章が記されたことで、私たちは「見えない戦い」が現実にあるのだと確信することができます。
ダニエルのもとに遣わされた御使いは「ペルシアの国の君」と呼ばれる者に進路を妨害されていました。
この「ペルシアの国の君」は、神の御使いを妨害しているのですから「サタンの手下」であることは間違いないでしょう。
そして、今、ダニエルに語っている御使いは「妨害」されていたのですから、イエス様であるわけがありません。「全能の神」の進路を妨害できる悪霊など存在しませんから。
つまり、今、ダニエルに語っている「彼」は、御使いであるということになります。
ゆえに、ダニエルが見て、気を失った「一人の人」も御使いであるという意見が出てくるわけです。
しかし、ダニエルの周囲に「一人の人」しかいなかったと断定はできません。
少なくとも「二人」はいたのではないかなと思うのです。
さて、とても重要なことを考えていきましょう。
なぜ「ペルシアの国の君」は、御使いの進路を妨害したのかということです。
「ペルシアの国の君」という呼ばれ方から、世界の国々にはそれぞれ「守護天使」がいると言われたりもします。国々に守護天使が一人ずついるのかは、私には分かりません。存在するのかもしれません。しかし、この箇所が「守護天使」が存在することの根拠にはならないことは分かります。
まず、この「ペルシアの国の君」は「サタンの手下」であることを覚えていてください。つまり「堕落した御使い」です。悪霊と呼ばれる存在なわけです。「守護」するわけがありません。
そして、思い出してください。
ダニエルが幻を与えられたのは「ペルシア帝国」の時代です。つまり、当時の「世界帝国」です。
御使いは「ペルシアの君」と戦うために戻っていきます。おそらく「ペルシアの君」を退散させることができるでしょう。
しかし、その後「ギリシアの君」がやって来るのです。
つまり次の世界帝国である「ギリシア帝国」です。
「青銅の腹とももの国」「豹のような獣の国」「一本の角を持つ雄山羊の国」です。
ダニエルは、地上で、主の御前に祈っていただけですが、天上では「激しい戦い」が行われていたということです。
しかも、世界の情勢がガラッと変わるような戦いです。
御使いたちの戦いは、私たちの世界の情勢に関係していることが分かります。私たちは、ただ地上に生かされているわけではないのです。私たちの祈りは「邪悪な日に対抗できる武器」なのです。
だからこそ「祈り」は何よりも妨げられるのです。
敵の妨害の理由
「終わりの日にあなたの民に起こること」つまり「終わりの日のイスラエルに関すること」は、知られたくない情報であるということです。
ダニエルが書き記すために「語られることば」は、サタンの国にとっては都合の悪いことなのでしょう。
ですから、私たちは大いに「終末預言」を学びましょう。敵が知られたくないならば、余計に深く知ってやりましょう。
この後、ペルシアの国は崩壊します。後、三人の王が起こりますが、ギリシアに滅ぼされます。
そして、次のギリシアの時代に、イスラエルは「苦難」に突入します。その「苦難」は、終りの日に起こる「大きな苦難」の予型です。
イエス様は言われました。
「今に至るまでない苦難」ということは、イエス様の時代以前には起こっていないということです。そして、それは今も「まだ起こっていない」のです。
考えれば恐ろしいことです。イスラエルは、想像を絶する苦難を味わってきました。しかし、終りの日、それ以上の苦難がやって来ます。
しかし、その苦難には「終わり」があります。必ず、主は勝利されます。そして、イスラエルは救われます。
敵は、その一連のことを知られるのが嫌なのでしょう。もちろん他にも嫌がる理由があるはずです。
私たちは「みことば」を学ぶことを「戦い」であるとは考えません。しかし、これは「戦い」であり「勝ち取る」必要のあることです。
多くの「みことばの知識」は「覆われて」います。隠されています。
それは、悪しき者が私たちの目に覆いをかけているからです。「難しい」と思わせているからです。また「自分には関係ない」と思わせているからです。
私たちには「固い食物はまだ無理だ」と思いこまされているのです。騙されています。
私たちは、主が許されるなら先に進めるのです。成熟を目指して、みことばの真意を学び続けましょう。
あなたの祈りが世界を変えます
「ペルシアの国の君」は「二十一日間」妨害をしていました。
それは、つまり「満三週間」ということです。
ダニエルの祈りは「最初から」聞かれていました。主のみことばは「すぐに」発せられたのです。
しかし、届くまで「満三週間」がかかりました。
ダニエルは、知らなかったけれど「戦い」が起こっていたわけです。
私たちは「天での戦い」と「地上の祈り」が関連していることを知ります。そして「天での戦い」が「地上の出来事」に影響することも知ります。
ダニエルが「悟ろう」「祈ろう」と心に決めたのは「御使い」のためではなかったでしょう。
しかし、ダニエルの祈りは御使いを援護したようです。結果として、ダニエルの祈りは「みことば」を地上にもたらすために役に立ったのです。
「みことば」を地上にもたらすことは、私たちの役目なのです。「みことば」の力が解き放たれるように求めることこそ、祈りの目的であると私は信じます。
イエス様が「主の祈り」を教えてくださったのは、まさにそのためではないかと思います。
「みことば」が解き放たれさえすれば、そこには必ず「結果」が伴います。必ず「御心」は成るのです。
御使いは、主のみことばを「持ち運んで」いました。悪霊はそれを妨害したのです。悪霊たちは、私たちより「みことば」には力があると信じているようです。
私たちは「みことば」が天から注がれるように、地に「みことば」が放たれるように求めましょう。
主の「みことば」には力があることを信じましょう。
愛する兄弟姉妹。
大げさではなく、あなたの祈りが「世界を変える」のです。
あなたが「みことば」の力を信じ「みことば」が解き放たれるように祈り求めるならば、天において「変革」が起こります。時代が移行するために、あなたの祈りが用いられることを信じてください。
私たちの戦いは「血肉によるのではない」ことを忘れてはなりません。
悪霊は、ダニエルが「悟る」ことを妨害しようとしました。同じように、今、あなたが「理解」することも妨げるでしょう。あなたの心の目に「覆い」を掛けるでしょう。
ダニエルは「満三週間」祈りました。その間、御使いは戦っていました。そして、その「祈り」の後にもたらされたのは、大いなる主の顕現でした。
主が御姿を現してくださったのには理由があると私は思っています。
ダニエルに告げられた「終わりのこと」も、使徒ヨハネに与えられた黙示録も、イザヤのことばに尽きると思います。
これは「神の復讐、報い」のときであって、必ず「神は来て、あなたがたを救われる」のです。
ですから、ダニエルは「立ち上がれ」と言われました。使徒ヨハネは「恐れることはない」と言われました。
御使いが、妨害から解放されて、ダニエルのもとに来た時、みことばの光が放たれました。
そこは「光」で照らされました。そして覆いが取り除かれました。ゆえに、主はダニエルに御姿を現されたのではないかと私は思います。
祈りは、私たちに「主の御姿」を仰がせるものです。
私たちは祈りましょう。
「心を定めて、悟りを得ようと」神の御前にへりくだりましょう。
そして「みことば」が解き放たれるように切に求めましょう。
しっかり立って、どんなときにも御霊によって祈りましょう。
恐れずに、安心して、強くありましょう。
諦めずに祈り続けましょう。
特別に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。
祝福を祈ります。