ダニエル1:8
ダニエルは、王が食べるごちそうや王が飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定めた。そして、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願うことにした。
バビロンに連れて来られたダニエルたち
ダニエルたちがバビロンに連れて来られたのは、ネブカドネツァル王が自分の宮廷で仕えさせたいと思ったからです。
当時、ダニエルは15歳ぐらいであったと言われています。おそらく、連れて来られた少年たちはみな同年代であったのではないかと思います。
これはまだ、最終的な「バビロン捕囚」の前の出来事です。「捕囚」はBC586年の一回だけではなく、それまでにも何度か行われています。ダニエルが連れて行かれたのはBC605年ごろだと言われます。
宦官の長が選んだ少年たちの中にダニエルと三人の友人もいました。
これは、イザヤがヒゼキヤ王に預言したことの成就と言えます。
バビロンに連れて来られた少年たちは、学問とことばを教え込まれ、王の宮廷で仕えることになります。もちろん、彼らは宦官となったでしょう。
この出来事の背後には主の御手があります。
「主は」渡されたと記されています。主がネブカドネツァルに渡されたのです。このことの背後には主がおられるのです。
ユダが捕囚の憂き目にあうのは、背きの罪のためです。全体的にはそうですが、ダニエルが連れて来られたのは、彼が優秀で見目麗しかったからです。王族か貴族の息子であり、教養もあったので連れて来られたのです。
そこに彼の罪は関係ありません。ダニエルにとっては、ただ降りかかった患難でした。
私たちは苦難や患難の意味を正確に知ることはできません。
しかし、どのようなときにも、そこに主がおられるのは確かなことです。ダニエルたちが捕らわれた背後にも、主のご計画が確かにあるのです。そして、また、私たちの上にも、主のご計画が必ずあるのです。
ダニエルは、終わりの日を生きる私たちの模範です。ダニエル書は、終末を生きる私たちのための書です。
神に「特別に愛されている者」と呼ばれるダニエルの生き方には大いに学ぶべきことがあります。
サタンの目的は同化させることです
ダニエルたちは、三年間、教育されることになりました。捕囚といえば、奴隷のように強制労働をさせるようなイメージですが、ダニエルたちへの待遇は破格のものでした。
もちろん、私たちのイメージの通りの捕囚の民もいます。その後のバビロン捕囚で連れて来られたエゼキエルなどは、ケバル川で建設工事に従事させられています。
ダニエルたちは、バビロン王に仕えるための人材です。後に、ダニエルは大臣として行政をつかさどります。
少年たちは、王の宮殿の華やかさに目もくらむばかりだったでしょう。没落寸前のエルサレムとは比べものにならない街並みに圧倒されたでしょう。バビロンの強さとユダの弱さを比べずにはおられなかったでしょう。
ネブカドネツァルは、バビロンの強さや華やかさで、少年たちを圧倒し取り込もうとしているのです。
彼らは、今後、祖国に帰ることはできないのです。少なくともネブカドネツァルには帰す気持ちは微塵もありませんでした。バビロンのために、バビロンの民として生きることを強制されるのです。(捕囚の民に帰る機会が与えられるのはバビロン滅亡後のことです。)
しかし、それは力づくでひれ伏させるというやり方ではありませんでした。
バビロンの魅力を見せつけて、生活のすべての面において「バビロン漬け」にするという方法がとられました。
彼らには「王の食べるごちそう」が与えられ「王の飲むぶどう酒」が与えられました。これらの素晴らしい物のすべてがネブカドネツァルから来るのだと教えられました。彼らの生活を支えているのはネブカドネツァルであって、彼らのいのちを握っているのは、バビロンの王であるネブカドネツァルであると刷り込まれたのです。
ダニエルたちは「別の名前」をつけられました。ユダの人々にとって名前は「自分」を現わすものでした。バビロンは、彼らのアイデンティティを根こそぎ奪うつもりなのです。
宦官の長は、ダニエルたちに恩恵を示したつもりだと思われます。
宦官の長は、ダニエルたちに、おそらくバビロン人として良いと思われる名前を付けたからです。
ダニエルという名前は「私の神はさばき主」という意味です。それが、ベルテシャツアルに変えられました。諸説ありますが「ベル神のしもべ」「ベルの軍」などの意味であると言われます。
他の三人の友人たちにも「別の名前」がつけられました。彼らはそれぞれ信仰的な素晴らしい名前でしたが、バビロンは彼らに「別の名前」をつけたのです。
世の中は「別の名前」で呼んできます
サタンは、私たち自身を奪おうとします。世の中は、私たちを「別の名前」で呼びます。
私たちは世の中に埋没してしまうと「本当の名前」を忘れてしまうのです。
「この世と調子を合わせてはいけません」とは「この世の型にはまってはいけません」とも訳せます。
「この世の型」にはまって生きるならば、本当の自分は失われます。世の中が呼ぶ「あなた」が本当の「あなた」ではありません。
世の中は、あなたに様々な呼び名をつけます。
「会社員」だとか「主婦」と呼ばれることもあります。
「良い人」と呼ばれることもあります。「不愛想だ」と言われることもあるでしょう。
「成功したすごい人」と呼ばれる人もいますし「失敗した落ちぶれた人」と呼ばれる人もいるでしょう。
「できる人」と言われる人もいますし「できない人」と言われる人もいます。
たとえ、どのような呼び方をされたとしても、それはすべて「あなた自身」ではありません。
世の中的に「良い」呼び方であっても、世の中的に「悪い」呼び方であっても、どのような「呼び名」も受け入れる必要はありません。
サタンは、あなたの本当の名前を奪うために「世の中の呼び名」を刷り込もうとしているだけなのです。
世の中は私たちを「ほめたり、そしったり」します。私たちは「悪評」されることも「好評」を博すこともあります。
パウロもそうでした。パウロも「ほめられたり、そしられたり」したのです。しかし、そのことは「パウロ自身」を損ないはしませんでした。「神のしもべ」という自分を周囲の反応によって失ったり、変えたりすることは決してなかったのです。
世の中があなたをどのように呼んだとしても恐れることはありません。それは「あなた自身」を何も損ないません。
主が「あなたの名を呼んだ」と言われます。その御声を聞いてください。
それはただ「カズミ」とか「ヒロシ」という名前を超えたものです。主は「あなたそのもの」を呼ばれるのです。
主の御前に出て、主の御声を聞くのです。世の中がつける「別の名前」によって揺れ動かなくてすむように、主の呼ばれる名前を聞いてください。あなたは必ず聞くことができます。羊は羊飼いの声を知っているものです。
ダニエルは「特別に愛された者」と呼ばれました。ヨハネは自分を「イエスが愛された弟子」と呼びました。ヨブは「わたしのしもべ」と呼ばれました。
主は、あなたのことも特別な名前で呼んでくださいます。主の呼ばれる「あなた」が本当のあなた自身です。世の中の呼び名は聞き流しなさい。心に入れる必要はありません。
主は「わたしはあなたの名を呼んだ」と言われます。
身を汚すまいと心に定めたのです
ダニエルたちは「別の名前」で呼ばれることになりました。しかし、彼らは自分を失いはしませんでした。
むしろ彼らは自分を奮い立たせたように思います。
ダニエルは「身を汚すまい」と決断したのです。それは言い換えると、神のものとして自分を「聖別」しようと決めたということです。
少年たちにとって「王の食べるごちそう」は魅力的だったでしょう。しかし、ダニエルにとってそれを食べて生きることは「身を汚す」ことであったのです。
なぜならダニエルは「神のことば」によって生きる者であったからです。
目の前にある「物」と「事」に注目してはいけません。ともすると、私たちはごちそうを「食べる事」が罪か罪でないかということに目を向けてしまいます。
しかし、いつも同じことを言うようで恐縮ですが、「罪だからしない」「罪でないから大丈夫」というように物事を判断しているならば、あなたは簡単にサタンに騙されてしまいます。
エバのことを思い出してください。彼女は「死ぬから食べてはならない」と思っていました。サタンは「死にませんよ」と言いました。そうすると、理由がなくなったので、エバは善悪の知識の木から取って食べたのです。
私たちの生き方の指針は「神のみことば」でなければなりません。私の「善悪の基準」もしくは世間一般の「善悪の基準」で生きているのではないのです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」のです。
ダニエルにとってそれはモーセを通して与えられた「律法」のことでした。
ダニエルは、主が聖なる方なので自分も「聖」でなければならないと知っていたのです。「聖」であるとは「聖別」されているという意味です。
祖国から連れ出され、神殿からも遠く離され、名前さえも奪われてしまいました。
しかし、それでもダニエルは「主のもの」である自分を忘れはしませんでした。「主のもの」は、主が「聖」であられるように自分も「聖」」でなければならないのです。
ダニエルは、バビロンで生きることと、バビロンに「同化」することの違いを知っていたのです。
「王のごちそう」には律法が禁止している食物が含まれていたでしょう。「王の飲むぶどう酒」は偶像礼拝と関わっていたと言われます。そして、そこには「酩酊」と「遊興」が伴っていたのではないかと思います。
ダニエルは「バビロンの型」にはまって生きることを拒否しました。彼は「身を汚すまい」と心に定めたのです。
今の時代にも同じ命令があります
私たちは「食物規定」に縛られて生きる必要はありません。豚肉を食べても、エビを食べても良いのです。
しかし、何をしても良いのではありません。
私たちにも、ダニエルたちと同じ命令が与えられています。
私たちも「善悪」で物事を判断しないように招かれています。私たちも「聖別」されることを求めるようにと勧められているのです。
「生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい」
「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」
「この世の型にはまってはなりません」
以上のみことばを心に留めて生きるなら、私たちの生き方は自ずと変わります。
私たちは、この世に埋没して生きるようにとは召されていません。イエス様は「あなたがたは世の光です」と言われました。私たちは「光」なので「暗闇」で隠れていることはできません。どのように小さな光であったとしても、その輝きを隠すことなどできないのです。
みことばに生きるならば「聖別」されるのです。
主は「真理」によって聖別してくださいます。そして「真理」とは「神のみことば」のことなのです。
私たちは聖別されています。主は私たちを「ご自身のもの」としてくださっています。私たちは輝けるのです。闇の中に輝く「光」として世の中を生きることができるのです。
神の栄光が現れます
おそらくダニエルたちの行動は「そこまでしなくても」と言われるようなことであったと思います。
「与えられたものを素直に受け取って食べるだけではないか」と周りの人は言ったでしょう。ユダからの捕虜である自分たちに選択の余地などないと彼らは思っていたでしょう。
もし王からのものを拒否したとすれば、いったいどのような目にあうのでしょうか。
宦官の長はダニエルに言いました。
ネブカドネツァル王の恐ろしさがよく分かります。宦官の長は「王を恐れている」と言いました。そして、もし、ダニエルたちの健康状態が悪くなったら、自分は責任を取らなければならないと言ったのです。それは、つまり、「いのちを失う」ということです。
ダニエルの申し出は「いのち懸け」であったということが分かります。宦官の長の「いのち」も、ダニエルたちの「いのち」も失われる可能性がありました。
「そこまでしなくても」と周囲は言うでしょう。
私たちが「聖別」されて生きようと「心に定める」なら、必ず何かしら戦いを経験します。あからさまな妨害もあるかもしれません。しかし、おそらく、最もやっかいなのは身内からの「そこまでしなくても」という言葉ではないかと思います。
主に従いましょう。
あなたを聖別へと招いておられるのは、主ご自身なのです。
敵は「そのようなことをして食べて行けるのか?」と囁きます。「それは罪ではないと思うよ」と言います。「そんなこと言ったら世の中では生きていけないぞ」と脅します。
すべて、弾き飛ばしてしまいましょう。
宦官の長は、ネブカドネツァル王を恐れました。しかし、ダニエルは神を恐れました。
主はご自身を恐れる者に恵みを注がれます。
主は、宦官の長にはダニエルを慈しむ心を与えられ、ダニエルには知恵を注いでくださいました。
その結果は、私たちの知っている通りです。
主の御業がダニエルたちを通して現れました。世の中に埋没しなかった彼らは、神の栄光を現す者とされました。
主の御力がダニエルたちを支えていました。彼らの力の源が「主ご自身」であることは明らかでした。
主は、私たちをも支えることがお出来になります。主こそ「わが力」だと私たちは大いに誇ることが出来るのです。主は、必ず、私たちを通しても栄光を現してくださいます。
それは10倍まさっています
主は、バビロンで生きるために「からだ」を強めてくださいました。しかし、それだけではありません。
ダニエルたちは、バビロンで生き抜くために「知識と、あらゆる文学を理解する力と、知恵を授けられた」のです。ダニエルには、「幻と夢を解く」という賜物が与えられました。
主は、私たちに必要なすべてを与えることがお出来になります。
終わりの時代、私たちは「聖別」を求めて生きる必要があります。この先、多くの惑わしが起こります。偽預言者が増々現れます。
力の賜物を見せつけるように用いる人々も増えるでしょう。しかし、どうか「賜物」に惑わされないでください。
追い求めるべきは「聖さ」です。私たちは「聖さ」を追い求めましょう。それは、麗しい主を仰ぐためです。
賜物とは「贈り物」です。それは「上」から与えられるものです。心配しなくても、終わりの日を生き抜くために必要な賜物は必ず備えられています。
周囲を見て「聖さ」もなく賜物を乱用している人をうらやましがることなどありません。あなたが「聖別」されているならば、あなたも主の御力を現す器として用いられます。
私は、終わりの時代には、私たち聖徒に「知識と、あらゆる文学を理解する力と、知恵」が増し加えられるのではないかと思います。
今まで読んでも分からなかった終末預言が、どんどん啓示されるであろうと信じています。聖書のあらゆる個所が、ますます鮮明になるだろうと思います。
そして、ある人々には、ダニエルと同じ「幻と夢を解く賜物」が与えられるだろうと思います。
しかし、それは決して「肉の望むところ」でも「人の意志によって」でもありません。ただ「神のみこころ」によるのです。「キリスト・イエスにある」者に与えられる「賜物」なのです。
人が最も生き生きと生活することができるのは、信仰と愛と聖別の中に生きる時だからです。
なるほど創世記 小山大三著 P29 岐阜純福音出版会
これは、私が尊敬する牧師の言葉です。私は、この言葉に全く同意します。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「聖さ」を追い求めましょう。ダニエルのように「心に定め」て生きましょう。
世の中が呼ぶ「別の名前」は「本当のあなた」ではありません。世の中の声に従って生きる必要などないのです。
主が「あなたの名」を呼ばれる、その御声だけを心に留めるのです。御声に聞き従うのです。
「そこまでしなくても」という声に聞き従ってはなりません。「すべてを失うぞ」というのはサタンの声です。私たちは「失うことで得る」のだと思い出してください。
世の中の型にはまって生きてはなりません。「キリスト・イエスにある」ものとして生きるのです。
主は、私たちを守る力をお持ちです。支えることができないわけがありません。
恐れることはありません。ダニエルたちは「国中のどんなの呪法師、呪文師よりも十倍もまさって」いました。
聖霊様が私たちを通して働かれます。ダニエルたちを「十倍まさる」者とされた同じ方が、私たちの神なのです。
ダニエルは、この後、長く宮廷で働きます。彼は、バビロンの最後の日もそこにいることになります。
それは異教の国であるバビロンへの神のあわれみです。
この個所を読むと「誰がいたのでもない、他でもないダニエルがいたのだ」という声が聞こえるような気がします。
終わりの時代、あなたがそこにいるのは偶然ではありません。主はあなたを「ダニエル」のようにしたいのです。
主は、他でもない「あなた」がそこにいることを望まれたのです。
私たちは、今、ここで「聖さ」を求めるように召されているのです。
祝福を祈ります。