【創世記9:23】
それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父の裸は見なかった。
見ないように
ノアが酔っ払って裸で眠ってしまった時、ハムはそのことを外へ出て告げました。
それを聞いたセムとヤフェテの行動に注目します。
セムとヤフェテは、父親の姿を見ないように細心の注意を払いました。
ノアに対する敬いの心を感じます。愛とは敬う心です。
彼らは、自分たちの肩に上着をかけ、うしろ向きに歩いて行きました。そして、上着でノアの裸を覆ったのです。
「万物の終わり」つまり「世の終わり」が近づいたとペテロは言います。
ペテロの時代より、今はもっと世の終わりが近づきました。
私たちは、もちろん祈りのために心を整えなければなりません。
そして、何よりもまず熱心に愛し合わねばなりません。
終わりの時代には、多くの人々の愛が冷めていきます。
人々は、自分だけを愛するものとなります。そして、神様より金銭を愛する者となります。
終わりの時代を生きる私たちは、自分と金銭を愛する者となってはいけません。愛を冷やしてはなりません。
愛は人の悪を心に留めません。人の失敗は見るべきものではないのです。私たちは、みな失敗します。
それを暴くことに意味はありません。悔い改めは個人的なことです。神様の光のうちに行うものです。
私は、キリストを着ます。
失敗を人に凝視されたくありません。
罪を犯してしまったことに気が付けば、主の御前に行って悔い改めます。
イエス様の血潮によってきよめられ、イエス様におおわれます。
そして、人には、キリストでおおわれた自分を見てほしいと願います。
あなたもそうではありませんか?
私たちは。自分がして欲しいことを人にもしなければなりません。
だから私は、あの人をキリストでおおいます。
そして、せっかくの「おおい」をめくって、中を覗こうとはしません。
愛は多くの罪をおおうものです。
私は愛を追い求めます。
人を育てることばや勧めや慰めを語ります。