【創世記11:9】
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。
彼らは一致団結していました
全地は一つのことばであったと聖書は言います。人々は神から与えられたことばを用いて意思の疎通を図っていました。
人々は、東の方へ移動しました。どこから出発したのかはわかりませんが、たどり着いたのは「シンアルの地」でした。
シンアルの地とは、欄外注を見ると「すなわちシュメール」と書いてあります。
民族系統が不明なシュメール人がメソポタミア南部ウル、ウルク、ラガシュなどの地域で20ほどの都市国家を形成、その後国王が権力を握る王国が成立した。
京都大学 メソポタミア地方史より
つまり、シュメールの地とは、メソポタミアの南部のことで、アブラハムが呼び出された「ウル」を含む地域のことです。そして、後のバビロニア地方ということになります。現在のイラク南部あたりだと言われています。
彼らは「シンアルの地」に住みやすそうな平地を見つけました。そこは、良い地であったのでしょう。そこに住み着くことに決めたのです。
彼らは、れんがを用いて町づくりを始めました。町に外囲いを建てるつもりだったのかもしれません。とにかく、人々が一致団結して働いている様子が目に浮かびます。
彼らの目的は、町を建てることだけではありませんでした。彼らは「頂が天に届く塔」も建てようとしていたのです。
「天にまで届く塔」と言っているところに反逆の匂いがしますね。
この「塔」は「ジッグラト」と呼ばれるものではないかと言われています。現存するものでは、ウルの遺跡が有名です。
ここで彼らが建てた塔とは、多くの学者が認めているように「ジッグラト」のようなものであったと思われる。それは宗教的な建造物であり、「天と地の会うところ」、つまり神と人との交流の場と考えられていた。
創世記 新聖書講解シリーズ 坂野慧吉著
彼らは一致団結して町と塔を建てようとしていたのです。
なぜ、塔を建てたのでしょう
彼らの建てた塔が「ジグラット」であったと断定はできませんが、神である主のために建てたものでないことは確実です。
彼らは言いました。
「自分たちのために」
「名を上げよう」
「散らされるといけないから」
彼らは「自分たちのために」塔を建てたのです。そこには、神である主に対する思いはこれっぽっちもありませんでした。
むしろ、この行為は「反逆」でした。
「名を上げよう」とは、まさしくサタンの持っている願望です。
サタンは、「いと高き方のようになろう」としました。おそらく、塔を建てた人々もそうであったと思います。
私たちは、天に上ろうとすれば「よみに落とされる」ことを覚えていなければなりません。
彼らはある意味において「神」になろうとしたのです。つまり、「誰にも支配されたくない」と考えたのです。
自分のことを自分で決めたいと思ったのです。この街を自分たちの好きなようにして、ずっと自分たちの思うがままに生きたいと願ったのです。
「散らされるといけないから」との言葉にそれが表れています。
御言葉をゆがめる者がいます
主は、大洪水の後、ノアに言われました。
主が祝福されたので、ノアの子孫たちは大いに増えました。彼らは、みな、それぞれ住むところを求めて広がっていったのでしょう。
増えては広がるを繰り返して、地に満ちていくことは御心であったと思います。彼らは、ノアのように、主のために祭壇を築きながら神とともに歩むべきであったのです。
しかし、シンアルの地に住みついた人々の心に、サタンが毒麦の種を蒔きました。それは、知らない間に成長して、彼らは、ノアの子孫でありながら神の子ではなく「悪い者の子ら」になってしまったのでしょう。
サタンは神のことばを歪めることに関して天才的なのです。悪い者の子らは、その父の言うことに耳を傾けます。
「満ちよ」という祝福のことばは、彼らには「散らされる」と聞こえたのでしょう。
サタンは、私たちに真実をねじまげて伝えるのです。
例えば、主に献身するなんてやめとけと言うのです。「主よ、私のすべてはあなたのものです。」と言うことを阻むのです。そんなことを言ったが最後、身ぐるみをはがされてしまうぞと脅します。
主は私たちの言質を取るような方でしょうか?
「よし、聞いたぞ。確かに聞いた。全部、わたしのものだ。おまえは朝から晩まで働け。何も持たずに死ぬまで働け。」と言われるでしょうか?
ある人たちは、それがすべてを献げることだと思っています。すべてを「取られる」と思うのです。「委ねる」とは「奪われる」ことだと感じるのです。
確かに、イエス様は弟子たちを何も持たせずに遣わされました。イエス様ご自身も枕するところもないと言われました。しかし、彼らは本当に何も持っていなかったのでしょうか?
弟子たちは確かに何も持っていなかったでしょう。しかし、彼らには「五つのパンと二匹の魚」で五千人を満腹させ、なお余りがあるという奇跡をおこなう方がともにおられました。
確かにイエス様は何も財産らしきものをお持ちではありませんでした。世の中の基準で言えば貧しいのでしょう。しかし、それは見える世界しか知らない人から見てです。
この方は「すべてを持っている」のです。地上の富など「ちりあくた」です。主は、金も銀も、万の丘も千の家畜も意のままに用いられるのです。見えている世界は「すべて」ではないのです。
もし、あなたが「主よ、私のすべてはあなたのものです。私のすべてをささげます。」と言ったとしたら、きっと御父は、こう言われると私は思います。
「我が子よ、よく言った。今から、おまえのすべてはわたしのものだ。そして、わたしのすべても、また、おまえのものだ。」
神は愛です。そして「惜しみなく与える方」です。御子をさえ惜しまずに、与えてくださった方です。イエス様は、ご自分の御体を裂いて「愛」を表してくださいました。
どんな状況であっても、誰に何をささやかれても、見えるところがどのようであっても、「神の愛」は決して変わらないことを覚えてください。
サタンは、「神のことば」をゆがめます。シンアルの地に住みついいた人々は、「満ちよ」という御心を「散らされる」と受け取ったのです。
ゆえに、散らされないために、町を強固にし塔を建てようとしたのです。
一致団結の力はすごい
主は、彼らの企てをご覧になりました。
「一つの民」が「一つのことば」で「企て」を行うとは、つまり、「目的を同じにして団結する」ということでしょう。そして、そこには「力」があるのです。
私たちは、悪霊は一致などしないと考えがちです。しかし、イエス様は言われました。
つまり、サタンの国は仲間割れしていないということです。それどころか、かなりちゃんとした組織形成をしていると思われます。彼らは仲間割れせずに「力」を発揮します。
この世にはさまざまな組織、団体があります。力ある働きをするグループもあります。目的が同じであれば、志が一つであれば、「主なる神」がいらっしゃらなくても、人は一致して働けるのです。
つまり、私が言いたいことは…
「一致」しているから「御心」であるとは言えないということです。「塔」を建てた人々は「神を排除するため」に「塔」を建てたのです。
「力ある働き」だから「御心」だとは限りません。「彼らに不可能はない」と主が言われたのです。放っておけば、彼らはどんどん事を進めることができたのです。
主が介入されました。彼らにこのまま「企て」を進めさせるわけにはいかないと思われたのです。
主は、ご自身の御心を成し遂げられます。彼らが地に満ちることは御心なので「成る」のです。彼らは祝福とともに「満ちる」のではなく、強制的に「散らされる」ことになりました。
彼らは「混乱」とともに「散らされ」ました。
御霊による一致
ペンテコステの日、御霊が一人一人の上にとどまられました。彼らは、御霊に満たされ「いろいろなことば」で話し始めました。
彼らは「いろいろなことば」で話しましたが、その内容は「一つ」でした。
御霊に満たされた人はみな「神の大きなみわざ」を語っていました。
主が与えてくださる「一致」は「いろいろなことば」で「神の大きなみわざ」を語ることです。
ペンテコステを経験した人々は、この後、迫害により散らされます。
「一致」「一つとなる」とは、同じ場所にいて、同じことを行うことを指すのではありません。もちろん、同じ場所でともに生きることは幸いです。
私は、これを知っています。兄姉が一つになって奉仕に励むことの楽しさ、喜びは格別なものです。
しかし、また、逆の場合のことも知っています。一緒に奉仕に励んでも、苦しく、分かり合えないというのも、また逆の意味で格別なものです。
「御霊」が一人一人に必要なのです。そして、一人一人が「召し」に立つことが必要なのです。なぜなら、「召し」の「望み」は「一つ」だからです。
教会に仕えることは大切です。
しかし、あなたの「召し」は何でしょう?
ただ「従わなくてはならない」「教会の方針だから」という理由だけで信仰生活を続けるのは、もったいないことです。
勘違いしないでください。私は教会に反対しろと言っているのではありません。
ただ、主は、あなたにも必ず「召し」を与えておられると言っているのです。そして、それが、主からの「召し」であるなら、また、あなたがその「召し」に立つなら、必ず「神の国が前進する」と言っているのです。
「召し」の「望み」は一つなのです。
聖霊は「一人一人」にとどまられることを忘れないでください。
「使徒たち」以外が散らされたのです。
散らされた人々は「使徒たち」ではありませんでした。私たちと同じような信徒であったのです。
彼らは「散らされて」狼狽えませんでした。
「使徒たちから離されてしまった。どうしたらいいのか分からない、何をしたらいいか分からない」とは言いませんでした。
彼らは散らされましたが「混乱」はしていませんでした。彼らは「御霊」とともに巡り歩いたのです。
彼らは、散らされて、なお、「みことばの福音」を伝えながら巡り歩いたのです。
彼らは、散らされても行く先で「みことばの福音」を伝えました。神の大きなみわざであるイエス様の十字架と復活を宣べ伝えながら巡り歩いたのです。
聖霊に満たされたら「神の大きなわざ」を語るのです。
私たちは住む場所が違っても、話す言語が違っても「神の大きなみわざ」を語ります。
終わりの時代に生きる者として
創世記は11章までで視点が変わります。この後、バベルから散らされた人々を聖書は追いかけません。
神の視点は「ただ一人」に向けられます。私たちの信仰の父「アブラハム」です。
信仰は、「一人で呼び出される」ものです。アブラハムは、「ただ一人」呼びだされ「信仰の父」となりました。
誰も、あなたの代わりに信じて従ってくれる人はいません。あなたは「ただ一人」で信じ従うのです。
主は「あなた」を召されます。主は「あなた」を呼ばれます。そのように「一人一人」呼び出された者が御霊によって一つとされます。
その人たちは、ノアのように主のために祭壇を築く人です。アブラハムのように神を望みとする人です。
自分のために「塔」を建てません。「散らされない」ために一致しません。
終わりの時代に集められるのは「神のためにと叫ぶ人」ではなく「神とともに歩く人」であると私は信じています。
私たちは惑わされてはなりません。
「良い目的を持った良い団体」について行ってはいけません。「一致を目的」とする組織に組み込まれてはなりません。「良い目的」が御心であるとは限りません。「一致を目的」として、そのために妥協するなら本末転倒です。
しっかりと「神とともに歩くこと」です。そうすれば、「御霊によって一つ」とされます。言葉は違っても、やり方が違っても、「神のおおきなみわざ」を語ることができます。
私たちは「御霊」によって一つです。
祝福を祈ります。