No.216 本当に心地よいのは「主のみことば」だけです

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Ⅱテモテ4:3~4
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

エレミヤのかせは砕かれました。

エレミヤ28:10
しかし預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。

「例のかせ」とは、主がエレミヤに「作って、首につけよ」と命じられた「かせ」です。エレミヤが「かせ」をつけているのは、王と民たちに「バビロンに仕えて生きよ」と言うメッセージを視覚的に伝えるためでした。

エレミヤ28:1
その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルヤの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。

エレミヤは、首に「木のかせ」をつけて、王や祭司たち、民全体の前に立たされていました。そこで「ハナンヤ」という預言者がエレミヤを指さし言います。

エレミヤ28:2
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。

そうして、ハナンヤはエレミヤの首から「かせ」を取り、それを砕いたのです。

想像してみてください。

どちらの預言者が「格好よく」見えますか?

エレミヤは、首にお手製の「木のかせ」をつけて立っています。そして「バビロンに首を差し出せ。そこでバビロンに仕えて生きよ」と言っています。

一方、預言者ハナンヤは、その「木のかせ」をエレミヤの首から外し、それを見事に砕いたのです。そして「このように、わたしはバビロン王のくびきを打ち砕くと主は言われる」と叫んだのです。

終わりの日、このようなことが起こります。それは、形を変えて起こります。しかし、本質は同じです。

だれも「かせ」を首にかけられたいとは思いません。「終わりの時代は困難な時代だ」という話ばかり聞きたいとは思いません。

もっと信仰的なことが聞きたいのです。耳に心地よく響く「愛のささやき」「慰めのことば」「平安の調べ」を聞きたいのです。

私も、こんなことを言うと嫌われるのだろうなと分かっています。しかし、言い続けるつもりです(笑)

覚えてください。

悔い改めのないところに、本当の祝福などないのです。悔い改めてもいないのに「平安」であると感じているならば、それは「偽りの平安」であり心が固くなっているのです。

どうぞ誤解しないでください。

厳しい言葉のすべてが「主のみこころ」だと言っているのではありません。逆もまた同じです。

あなたが本当に「神のしもべ」であるなら、どのような状態であっても、どんな時でも「愛・慰め・平安」はあります。「喜び」も必ずあります。

そしてまた、本当の「神のしもべ」であるからこそ「訓練」「叱責」もあるのです。その時は喜ばしくなくても後には「義という平安の実」を結びます。

マルコ13:22~23
偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話ました。

「あなたがたは、気をつけていなさい」とイエス様は言われました。

私たちは「気をつけて」いましょう。「良いこと」を語る人が「良い人」なのではありません。「格好よく」見えるからと言って「正しい」とは限りません。

私たちは、誰かの語る「耳に心地よい話」を「寄せ集める」必要はありません。

主の御言葉を聞きましょう。主のことばは、たとえ「大患難」について語られたとしても、あなたの口には甘いのです。

主の声を聞き分けられますように
「気をつけて」いることができますように
あなたの御言葉をほめたたえます