エレミヤのかせは砕かれました。
「例のかせ」とは、主がエレミヤに「作って、首につけよ」と命じられた「かせ」です。エレミヤが「かせ」をつけているのは、王と民たちに「バビロンに仕えて生きよ」と言うメッセージを視覚的に伝えるためでした。
エレミヤは、首に「木のかせ」をつけて、王や祭司たち、民全体の前に立たされていました。そこで「ハナンヤ」という預言者がエレミヤを指さし言います。
そうして、ハナンヤはエレミヤの首から「かせ」を取り、それを砕いたのです。
想像してみてください。
どちらの預言者が「格好よく」見えますか?
エレミヤは、首にお手製の「木のかせ」をつけて立っています。そして「バビロンに首を差し出せ。そこでバビロンに仕えて生きよ」と言っています。
一方、預言者ハナンヤは、その「木のかせ」をエレミヤの首から外し、それを見事に砕いたのです。そして「このように、わたしはバビロン王のくびきを打ち砕くと主は言われる」と叫んだのです。
終わりの日、このようなことが起こります。それは、形を変えて起こります。しかし、本質は同じです。
だれも「かせ」を首にかけられたいとは思いません。「終わりの時代は困難な時代だ」という話ばかり聞きたいとは思いません。
もっと信仰的なことが聞きたいのです。耳に心地よく響く「愛のささやき」「慰めのことば」「平安の調べ」を聞きたいのです。
私も、こんなことを言うと嫌われるのだろうなと分かっています。しかし、言い続けるつもりです(笑)
覚えてください。
悔い改めのないところに、本当の祝福などないのです。悔い改めてもいないのに「平安」であると感じているならば、それは「偽りの平安」であり心が固くなっているのです。
どうぞ誤解しないでください。
厳しい言葉のすべてが「主のみこころ」だと言っているのではありません。逆もまた同じです。
あなたが本当に「神のしもべ」であるなら、どのような状態であっても、どんな時でも「愛・慰め・平安」はあります。「喜び」も必ずあります。
そしてまた、本当の「神のしもべ」であるからこそ「訓練」「叱責」もあるのです。その時は喜ばしくなくても後には「義という平安の実」を結びます。
「あなたがたは、気をつけていなさい」とイエス様は言われました。
私たちは「気をつけて」いましょう。「良いこと」を語る人が「良い人」なのではありません。「格好よく」見えるからと言って「正しい」とは限りません。
私たちは、誰かの語る「耳に心地よい話」を「寄せ集める」必要はありません。
主の御言葉を聞きましょう。主のことばは、たとえ「大患難」について語られたとしても、あなたの口には甘いのです。
主の声を聞き分けられますように
「気をつけて」いることができますように
あなたの御言葉をほめたたえます