創世記16:3
アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れてきて、夫アブラムに妻として与えた。
サライが与えたのです
主は約束をくださいました。そして、アブラムは「主を信じた」のです。それは彼の義と認められました。
しかし、現実の見える世界においては、まだ「アブラム自身から出る者」は与えられてはいません。
約束の地に入って十年が経ちました。
サライが、アブラムから「約束の子孫」について聞いていたことは間違いありません。カナンの地に入る以前からサライには子どもが与えられていませんでした。そして、カナンの地に入って十年が過ぎた今、やはりまだ、サライには子どもが与えられていないのです。
サライは「主は私が子を産めないようにしておられます」と言いました。この点は、その通りです。私たちは知っていますね。主の御心の時は、まだ来ていなかったのでサライの胎は閉ざされていたのです。
主は、この時、創造の御業を行っておられました。創造の御業と同じように「形もなく何もない」という状態から「いのち」を産み出そうとしておられました。
アブラムの力もサライの力も失われるのを待っておられました。すべての「人間的なもの」を排除しておられたのです。アブラムとサライが自分の力に絶望し、完全に不可能だと認めるまで待っておられたのです。
アブラムが御霊に満たされて「アブラハム」と変えられ、サライが「サラ(ハ)」とされるまで「約束の子」は与えられないのです。
私たちは、覚えていなければなりません。
私たちは、何か事が起こるのを辛抱強く待っているつもりですが、実は、それ以上に、主が待っておられるのです。私たちの神は「忍耐と寛容の神」です。そして、主の忍耐は、常に私たちにとっては救いなのです。
しかし、もちろん、サライはそのような主のご計画を知ってはいませんでした。ゆえに、自分で何とか約束を実現しようと考えたわけです。
それはエバと同じ過ちでした
サライは何を間違ってしまったのでしょうか。
サライは「良かれ」と思って提案したのです。彼女の動機に悪意はなかったと思います。アブラムのために、一族の跡取りのために、そして「主の約束の成就のために」できる限りのことを行ったのです。
しかし、人の「良かれ」が、主のみこころであるとは限りません。
サライには同情するべき点が多くあります。
自分がアブラムの子を産むことができないのだと認めざるを得ない気持ちは、察するに余りあります。
そのうえで、自分に仕えているハガルを差し出す決断をしたのです。サライは、感情的なことは横において、正妻としての務めを果たそうと考えたのでしょう。
当時の風習では、正妻に子どもが与えられなかった場合、別の女性との子どもを儲けるという方法がとられていたようです。
このような方法は、古代東方世界の一般的な慣習であった。女奴隷の一人を第二夫人にするのである。こうして女奴隷は、子を生めば自由の身になることができた。しかしこれは、女奴隷が第一夫人とはり合ったりしないという条件で、この条件にそむけば、女奴隷は、もとの奴隷にもどされるか、売られるか、殺されるかした。
創世記 尾山令仁著 羊群社
サライの提案は、当時としては「一般的」つまり「常識的」なものであったということです。サライとしては、アブラムがこの方法を選択しないのは、自分の気持ちを考えてのことだろうと思っていたはずです。
そうだとすれば、サライのできることは一つです。アブラムが言い出せないなら、自分から提案するしかありません。
おそらく背後でサタンがささやいたのでしょう。
「ほら、ハガルを見てごらん。彼女によって子どもを得るのはどうだろう?」
サタンのささやきは、サライの心を容易に掴んだのです。そして、サライは、エバと同じ過ちを犯したのです。
ハガルは、サライにとっての「善悪の知識の木」でした。その実を取って食べてはならないのです。
しかし、それは「良さそう」な計画でした。「目に慕わしく、賢くしてくれそうで、好ましかった」のです。
自分が子を産めないという痛みを「覆う」ことができる計画でした。それは、サライの自己肯定感を高める計画でした。「私さえ我慢すれば」という「見せかけ謙遜」が満足します。アブラムの正妻であるという責任感は全うされますし、正妻としての立場は守られます。
そして、それは「賢い」「常識的」な計画に見えました。いつも言いますが「常識的」な計画が「みこころ」であるとは限りません。世間一般で行われていることで聖徒にふさわしくないことは幾らでもあります。
サライは、自分で「約束を成就」することを選んだのです。それは「神のようになる」ことと同じです。
私たちは、エバのように分かりやすく背くことはないかもしれません。「食べてはならない」と言われたら、ほとんどの聖徒は「食べない」でしょう。ささやかれても「食べない」と思います。
しかし、サライのような選択をすることはあるのではないでしょうか?
むしろ、真面目な人ほど、その罠にかかりやすいのではと思います。
それは肉の人の考え方です
サライの提案は、人々の同情を誘います。自己犠牲の精神を持った賢い女性だと思われたことでしょう。
しかし、この選択は「肉の人」のものです。
この後、イシュマエルを身ごもったハガルは、サライを軽く見るようになります。そして、サライは、ハガルを苦しめるのです。つまり、いじめるわけです。
「肉の人」である証拠は「ねたみ」「争い」です。サライは、自分の行動で「肉の人」であることを証明しているのです。その人がどれほど霊的に見えても、その口ぶりがどれほど謙遜であっても、その生み出す実によって、本当のことが分かるのです。
「そねみ」や「争い」を生み出すなら、私たちは「肉の人」です。「肉の人」からの提案がどれだけ優れているように見えても、生まれて来るのは「約束の子」ではあり得ません。それは「肉によって生まれた者」と呼ばれます。
サライは「約束の子」を産み出す手伝いをしたつもりだったでしょう。しかし、ハガルの子は「肉によって生まれた者」と呼ばれるのです。
人の「良かれ」は、決して神の約束を成就させません。「約束の子」は「約束」によって生まれるのです。
サライの「努力」「謙遜」「我慢」「賢さ」は「約束の成就」には何の関係もありません。誤解しないでください。私は、忍耐が大切でないとは言っていません。ただ「約束の成就」は「努力の報酬」ではないということです。
真面目な人ほど罠にかかりやすいのです。サタンは言うでしょう。「頑張ってできる限りのことをして、主を待ちなさい」と。
そして、私たちが必死で頑張ったあとで、再び言うのです。「もう少し祈るべきだ。もう少し、あと少し、やれることがあるはずだ」
それは、おそらく、いつまでも続く「もう少し」です。サタンはいつまでも私たちを解放しないでしょう。そして、私たちは、いつまで努力をしても「約束の成就」を見ることはできないのです。
努力をやめて信じること
私たちが「神の約束の成就」すなわち「神の御業」を見たいと望むならば、自分の努力をやめることです。「良かれ」と思って行動することをやめることです。
人の「良かれ」は永遠に続くものを生み出すことはできません。それは何一つ相続できないのです。
サライは、ハガルによって「跡継ぎ」を得るつもりでした。そのために、耐え忍んだのです。しかし、ハガルの子は「相続すべきでない」のです。サライの努力が生み出したのは「相続権のない子」でした。これは悲劇です。
私たちは、このことから教訓を学ばなければなりません。頑張って頑張って、その結果が「何も受け継げない」であるなら、悲劇だとしか言いようがありません。
「肉の人」からは「永遠に続くもの」は生み出せません。永遠に続く神の御業を仰ぎたいなら、私たちがするべきことは一つです。
私たちは、神のわざを行うために何をするべきかと考えます。「どうすれば」「何をすれば」と思います。しかし、イエス様は言われました。
「神が遣わした者」すなわち「イエス様を信じること」こそ「神のわざ」であると。
「神のすぐれた力」は「信じる者のうちに働く」のです。私たちは「約束の成就」のために努力するのはやめましょう。今、私たちの手をも心も、天におられる神に向かってあげましょう。
「主よ、私はお手上げなのです」と言うのです。そして「主よ、私はあなたを信じます」と告白するのです。
主は「信じる者に働いて」くださいます。主がなさるのです。
私たちは覚えていなければなりません。
「アブラムは主を信じた」と書かれています。「約束」を信じたのではなく「約束を成就される方」を信じたのです。私たちは「与えられるもの」からさえも目を離さなければなりません。
私たちは「主ご自身」を見上げるのです。
私たちは「主ご自身」を信じるのです。
アブラムは受け入れてはいけませんでした
サライの必死の嘆願をアブラムは受け入れました。
アブラムとて、このような方法を思い巡らせたことがあったでしょう。しかし、彼は、今までずっと、この方法を選択しませんでした。
それは、もちろん、サライへの思いのためです。そして、おそらく彼の心に書かれた「神の律法」つまり「良心」のためであったと思います。
アブラムの心が、この方法は良くないと感じていたので、彼はこの方法を選択しなかったのです。アダムが「善悪の知識の木の実」の存在は知っていたれど食べなかったことと同じです。
彼らは二人とも「自分の妻」から差し出されたので受けたのです。
アブラムの場合は、特に断りづらかったでしょう。なぜなら、サライが「良かれ」と思って、自分を犠牲にして提案してくれたからです。サライの「良かれ」は、アブラムの良心を黙らせました。アブラムはサライの提案に動かされてしまいました。
その結果、イシュマエルを産むことになったのです。「肉によって生まれた者」です。
私たちは、人の「良かれ」に動かされてはなりません。卑怯なことにサタンは、人の「良かれ」を使って惑わしてくるからです。
私たちの親しい人が、主の御心とは異なる「提案」をしてくることはあり得るのです。もちろん、私たちの周囲の人が「ほかに神々に仕えよう」と言うことはないでしょう。
しかし「良かれ」と思って「御心から逸らせる」ことはあるかもしれません。この「良かれ」は曲者です。なぜなら、あなたを愛する人が、あなたのことを考えて「良かれ」と思って言うことだからです。
それでも、私たちは、人の「良かれ」に耳を貸してはならないのです。
イエス様はペテロに言われました。
「神のこと思わず」に「人のことを思う」ことは「引き下がれサタン」と言われるほどのことなのです。それは、十字架の道を阻むことでした。
ペテロは「良かれ」と思っていさめたのです。イエス様のことを思って言ったのです。しかし、それは、主イエスをつまずかせるものでした。
ペテロの背後にサタンがいました。「あなたが神の子なら」と誘惑したサタンが、ペテロの情を利用したのです。
人の情では、「救い」を得ることはできません。「情」は「永遠に続くもの」を生みません。それは「肉」なので、「相続権のないもの」を生みだします。
アブラムは、近い将来、自分で生み出したものを追い出すことになるのです。それは、双方に苦痛をもたらすものでした。
私の力が失せるときこそ
約束の子は「イサク」ただ一人です。「子ども」であればよいのではありません。過程が違えば、生み出される結果も違ってきます。
「肉の人」は「肉によって生まれた者」しか見ることができません。「御霊に導かれる人」だけが「約束の子」を見ることができるのです。
私たちは「約束の成就」を待ち望みます。
「約束の成就」を見るためには、自分で「成就させる」ことをやめなければなりません。
自分の力で、経験で、努力で手に入れたものは、最初は「良く」見えるものです。しかし、それは永遠には続きません。
「約束の子」は「約束」によって生まれます。主がご自身で御業を行われます。何もないところから「いのち」を生み出されます。それは「永遠に続く」のです。
大切なことは「主を知る」ことです。
私たちは、行く道のすべてにおいて「主を知る」ことができます。主がどのような方か、何をなさるのか、何を語られるのか、私たちは心を尽くして、主に拠り頼みます。それは、主ご自身を深く知るためです。
自分の知恵に頼ってはなりません。人の「良かれ」に耳を傾けてはなりません。
心を尽くして、一心に、ただ「主を知る」ことを求めましょう。そうすれば、進む道は、おのずと開かれます。どうすれば良いのかが分かります。
「約束の子」は、「約束」によって生まれるのです。主がなさることを忘れないでください。
私たちは常に「いのちの木」であるイエス様を選びます。世の中が差し出す「善悪の知識の木」を受け入れてはなりません。
それは、確かに「良さそう」に見えるものです。「常識的」に見えます。「賢く」思えます。そして、それは人が「良かれ」と思ってする提案かもしれません。
もし、迷うようなことがあれば「主を前にしています」と告白してください。そうすれば、退けるべきことが分かります。進むべき道が真っすぐにされます。
私たちは、真っすぐな道を行きましょう。私たちの行く道のすべてにおいて「主を知る」ことを求めましょう。
御手のわざが、私たちの行く道に現わされますように。
私たちは「うわさで聞いた」だけで満足する生き方を返上しましょう。私の人生に大いなる主の御業が現されることを期待しましょう。「私は、自分自身で主を知りたいのです」と申し上げましょう。
この後、アブラムとサライの力は失せていきます。完全に失われます。しかし、その時こそ、大いなる主の御力が現されるのです。
私たちの力が失せるとき、その時こそ、主の大いなる御業が現れると信じます。
祝福を祈ります。