Ⅱテモテ2:13
私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。
キリストがうそをつくものか
八木重吉は、29歳で天に召された夭折の詩人です。「イエスは きっとまたくる」という詩があります。私は、ときどき、この詩を口ずさみます。
きりすとが
詩人 八木重吉のこころ わがよろこびの頌歌はきえず いのちのことば社
うそをつくものか
またくるという
こないことがあるものか
ある大学の教授が「八木重吉の作品は、詩であるのかどうかという疑問を持つ人もいますが、私はこの人の書いたものは好きです」と言ったそうです。私もまったく同感です。
私たちは、信仰について難しく考えたりしますが、結局のところ、信仰とはこういうことなのではないかと思うのです。
私たちは真実でなくても「キリストは常に真実」です。私たちの信仰は、イエス様の真実を信じることに尽きます。
私たちは、イエス様が「真実な方」であることを信じているのです。
重吉が言うとおり「きりすとが うそをつくものか」ということを信じているのです。
私たちの主は「確かで真実な方」と呼ばれるのです。これが、この方の呼び名であり、この方の変わることのない「ご性質」なのです。
誰に望みを置きますか?
何を頼りにしていますか?
「見えるもの」は望みにはなりません。「見えるもの」は一時的です。
私たちは「キリスト・イエス」に望みを置きます。なぜなら、この方は永遠に「確かで真実な方」だからです。
この「確かで真実な方」が約束されるので、私たちは「みことば」を信じるのです。
この「確かで真実な方」が「また来る」と言われたので、私たちは「再臨」を信じているのです。
私たちの信仰は「キリストは常に真実である」ことにかかっているのです。私たちは「キリストのご性質」に望みを置いているとも言えます。
私の真実ではありません。私の性質ではありません。私の忠実さでもありません。
ただ「主の真実」を信頼します。
今日も、変わることなく「主は真実」です。私たちは確信を持って信仰を高らかに宣言できます。
私は主の真実に望みを置きます。
イエス様は「確かで真実な方」です。
私はイエス様を信じます。