創世記13:10
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へと移動した。こうして彼らは互いに別れた。
そこは魅力的な地に見えました
見えない世界があるなんて、ロトは考えもしませんでした。アブラハムが、生きているのは「見える世界」ではないことをロトは知らなかったのです。
ロトが目を上げたとき、そこには「潤った地」が見えました。そこは「主の園のように」また「エジプトの地ように」どこもよく潤っていました。
見えるものに惑わされてはいけません。それは「主の園のように」見えますが、そこに主ご自身はおられません。
それは「エジプトのように」見えます。この世の良いものがすべてあるかのように思います。けれど、それは一時的です。ソドムとゴモラの最後は、すぐそこまで迫っています。
アブラハムに付き従い、生ける神の御心の中にロトはいました。しかし、個人的に主ご自身を知ってはいませんでした。ただ、偉大な叔父さんに付き従っていただけです。
おそらく、ロトはアブラハムから多くのことを学んだのです。家畜の飼い方や増やし方、商売の仕方、この地域の人々との付き合い方などを学んだでしょう。ソドムでの暮らしぶりがそれを物語っています。
しかし、最も大切なことを学ばなかったのです。
アブラハムが「何を見て」歩んでいるのかを学びませんでした。アブラハムをカナンに導いた「見えない方」を個人的に主としなかったのです。
「見える世界」だけで生きている人々は「一時的」に繁栄するように見えるでしょう。「見えない世界」を信仰によって生きる人々は「愚か」に見えるかもしれません。
しかし、彼らは知らないのです。「見える世界」には限界がありますが、「見えない世界」には限界がないことを。
ロトは、ソドムで繁栄し、それなりの地位を得ます。しかし、アブラハムは、それを上回る祝福を受けています。アブラハムには訓練された者たちを有していて、王たちと戦って勝つほどの力を持っていました。
ロトの最後は悲劇です。彼は結局、身一つで命からがら助け出されます。(創世記19章を読んでください)
この世の終わりにも同じことが起こると私は思います。今の時代のロトとアブラハムも別れることになるでしょう。それは、おそらく教会と呼ばれる私たちの中で起こる分離です。今の時代、再び、アブラハムのように信仰によって生きる人々が起こされていると信じます。
私たちは他人の信仰では生きられません。ロトのように付き従っているだけなら、遅かれ早かれ、世の中の型にはまってしまうでしょう。あなたは、個人的に「見えない神」を「私の主」と呼び、心を尽くして従う必要があります。
私たちは「見えているもの」で生きるのではありません。私たちは信仰によって生きます。それは「見えないもの」を確信して生きることです。
私は見えないものに目を留めます。
私は信仰によって生きます。
私は、他の誰かではなくイエス様に従います。