詩篇55:16
私が神を呼ぶと 主は私を救ってくださる。
迷子になったのは私です
ある牧師が、教会学校に来ていた少年に質問しました。
「君は、イエス様を見つけたかい?」
すると、少年は驚いて言ったそうです。
「先生、僕はイエス様が迷子になったなんて知らなかった。迷子は僕で、イエス様が僕を見つけてくれたんだと思ってたよ。」
確かに、その通りです。この少年は、しっかりと真理を掴んでいます。
常に探してくださるのは、イエス様の方です。
主は、私たちを捜しに来てくださいました。そして、見つけて、ご自分の囲いの中に入れてくださったのです。
しかし、それでも、私は時々、囲いを抜け出し彷徨い出てしまうことがあるのです。そして私は、放蕩息子よりも愚かな者で帰る道さえ見失ってしまうのです。自力で元に戻ろうとしますが、どうしても戻ることができません。
なんとか自分で問題を解決しようとして一生懸命にあがきます。なんとか自分で達成しようとして一生懸命に頑張ります。悪いことをしているつもりはありません。ただ自分で何とかしようとしているだけです。
しかし、そうすると、なぜか、どんどん自分が「外れていく」のが分かります。「落ちて行く」と言ってもいいかもしれません。意図的に罪を犯した記憶はありません。それでも、何か言い表していない罪があるのかしらと心を探ってみます。だけど、思い当たることがありません。
私は途方に暮れてしまいます。賛美をしても、祈っても、学びをしても、何をしても「外れたまま」です。
本当にどうすればよいのか分からなくなって、心細くなって、迷子の子どものような気持ちになります。
そして、とうとう、主に向かって叫ぶのです。
「主よ、助けてください。私はここから抜け出せません。帰り道がわからないのです」
その瞬間、本当に「瞬間」です。主が「ここにおられる」ということがわかるのです。そして「ああ、またやってしまったな」と思うのです。こんなに長い時間をかけずとも「外れた」と悟った瞬間に呼び求めれば、もっと早く戻ることができたのに。
私が本気で「助けてください」と叫んで、主が助けてくださらなかったことは一度もありません。それなのに、私は、いつも「叫ぶ」のが遅いのです。
イエス様は、迷子にはなられません。いつも、迷い出てしまうのは私の方です。そして、いつでも捜して見つけ出してくださるのはイエス様の方です。
道に迷ったなら、こざかしい真似はやめて、すぐに叫べばよいのです。
ダビデは、そのことを良く知っていました。
主は「呼べば救ってくださる」方です。
私たちは、もっと主を信頼しましょう。「呼ぶこと」を躊躇してはなりません。どんなときでも「呼ぶ」なら、主はすぐに助けてくださいます。
いつまでも同じ所をグルグルしているのは、私が主を呼ばないからです。それも本気で呼ばないからです。
主を呼ぶことは「最後の手段」ではありません。自分のできる限りのことをした後で、主を呼び求めるのは遅いのです。
主を呼ぶことは「いつでも」です。「どんなときでも」です。
私たちは、絶えず、主を呼びましょう。主の恵みは尽きることがありません。
主を呼ぶなら、いつでも、どんなときでも、必ず救われます。
主よ、あなたは私の救いです
私はあなたを呼び求めます
主の恵みを受け取ります