【ヘブル11:19】
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることができると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。
アブラハムは考えました
主の命令は理解できないものでした。なぜ、あんなにも長く待ち望んだ「ひとり子イサク」を献げねばならないのでしょう。しかも「全焼のささげ物」にしろとは何という命令でしょう。
私たちは「信仰の父アブラハムの物語」に親しみ過ぎていて、結果も知っていますし、この箇所をサラッと読んでしまいます。
しかし、よく考えてみると、こんな理不尽な命令はありません。
アブラハムが、私に相談してくれたなら、きっとこう答えます。
「ねえ、アブラハム。よく考えてみて? 神様は子どもをいけにえに要求するような方じゃないと思うの。しかも、イサクだよ。神様の奇跡の証拠であるイサクをささげるなんてあり得ない」
どうですか? 私の言い分は理屈にかなっていると思いませんか?
アブラハムも、同意はしなかったけれど、私と同じ理屈を思い浮かべたと思います。なぜなら、翌朝早く、イサクを連れ出しているからです。おそらく、誰にも相談しないで決めたのでしょう。相談したら猛烈な反対を受けて、もしかしたら、自分はそれに屈してしまうと思ったのではないでしょうか。
ある人は、神様に従うことは「ほどほど」がよいと言います。なんでも行き過ぎはよくないと言われます。普通に、真面目に暮らして幸せであればよいと思います。
聖書に書かれているから「信仰の父」と称賛されているけれど、実際、今の時代にアブラハムのような信仰者が存在したら何と呼ばれるでしょうか。
「あの人は行き過ぎだ」「狂信者だ」「あれは異端すれすれだ」「情熱だけで突っ走る迷惑者」などと呼ばれたかもしれません。
アブラハムがイサクを連れ出したのは「神には人を死者の中からよみがえらせることができると考えた」からです。
アブラハムは何も考えないで「突っ走った」のではありません。ちゃんと「考えた」のです。
この「考えました」は、「計算しました」とも訳せます。数学的な「計算」です。彼は、ちゃんと「計算した」のです。その結果、「大丈夫」という答えを導きだしたのです。
ただ、アブラハムの計算方法は少し違っていただけです。
彼は「神の声」をはっきりと知っていました。今まで何度も語られらた方を信頼していました。彼は、「神」がどのような方か知っていたのです。
それは、うわべだけの知り方ではなく、本当に「知って」いたのです。
そして、その方を「計算」にいれたのです。
そうすると答えは「従う」になったのです。
神には人を死者の中からよみがえらせることは可能だろうと彼は思いました。
しかし、それでも「愛するひとり子」に刃物を振りかざすのは並大抵のことではありません。決して、納得した上での行為ではなかったと想像します。
しかし、「神」を計算にいれて考えたら答えは常に「従う」しかないのです。そして、「従う」という答えは常に正しいのです。
覚えてください。「信じる」と「従う」は同じです。
私たちは「主を信じます」と言います。そう告白しながら「従いたくはありません」とは言えないのです。
従わないなら「主」ではありません。それはただ「神様がおられることは信じています」という告白です。
私たちは、アブラハムのように「神の声」を聞きましょう。しっかりと聞くのです。それには、親しい交わりが不可欠です。
悪霊は、神の存在に身震いするだけです。
私たちは神の臨在を慕い求めます。そのように「愛する方」として知ったなら、「信じる」ことが「従う」ことであることが容易に理解できるでしょう。
そうすると、すべてのことに「神」を入れて計算することが普通になるでしょう。「神」を入れて正しく計算すれば、「ほどほど」などと言う答えは決して導き出されません。
私たちは、アブラハムのように従うのです。理解できなくても、周囲の人に反対されても、無謀だと言われても、何を言われても、自分がどう感じても、それでも「従う」のです。
主は信頼に値する方だと私は信じています。
私は信じます。
ゆえに従います。
主の御声を聞かせてください。