【創世記4:4】
アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。
カインとアベルが生まれました
エバは男の子を産みます。そして、その名をカインと名付けます。
「私は得た」と彼女は言いました。カインという名は「私は得た」という原語と音が似ているそうです。
エバは、おそらく主が約束してくださった「あの子孫」を「得た」と思ったのでしょう。
エバが最も「蛇」を憎んでいたのではないかと私は思います。あの「蛇」さえいなければと考えても当然だと思います。「私は得た」と彼女は本気で喜んだのでしょう。「蛇」の頭を打ち砕くのは「カイン」ではないかと思ったのではないでしょうか。
「私は得た」という言葉は、結末を知っている私たちには少し悲しく聞こえます。創世の昔から、人々は救い主を待ち望んでいたのです。
エバは、さらに子どもを産みます。今度は「アベル」と名付けました。「息」とか「はかない」「空しい」などの意味です。確かにアベルの命は「はかない」ものでした。
この兄弟は、成長してそれぞれ職業を得ます。
アベルは、羊を飼うものになりました。カインは、大地を耕すものとなりました。どちらが良いとか、悪いとかいうことはありません。どちらも素晴らしい仕事です。ノアは農夫でしたし、ダビデは羊飼いでした。
アダムは大地を耕す人でしたから、その息子であるカインが大地を耕す者となることは自然の成り行きだと思います。
二人ともささげ物をしました
どのぐらいの時が過ぎたのか分かりませんが、カインは大地の実りを主へのささげ物として持ってきました。自分が作ったものを献げようと考えたのでしょう。
アベルも、ささげ物を持ってきました。アベルのささげ物は「羊」でした。
2人ともささげ物をしましたが、主が目を留められたのはアベルとそのささげ物でした。
主は、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。
信仰によるアベルのささげ物
アベルのいけにえは、カインのものより「すぐれている」と聖書は言います。
そして、アベルはそのいけにえによって、正しい人であると証されたのです。アベルのいけにえが、彼を「正しい人」だと証明したのです。神様ご自身も彼の「ささげ物」を「良いささげ物」だと証しておられます。
「ささげ物」がアベルを正しい人だと証明するのです。「ささげ物」がアベルを「正しいと認めさせる」のです。
アベルのささげ物とは何だったでしょうか。
アベルのささげ物は「羊」でした。ヘブル書には「いけにえ」と書いてあります。つまりアベルの「ささげ物」とは「羊の犠牲」であったのです。
それは、カインのささげ物より「すぐれたいけにえ」であると聖書は言います。「羊の犠牲」は神様が、良いささげ物だと証してくださったのです。
犠牲が払われたのです
アダムとエバは善悪の知識の木から取って食べました。
彼らは、あれほど慕わしかった「主の御顔を避けて」身を隠したのです。自分が裸であるのを恐れて身を隠したのです。
主は、彼らのために身をおおうものを作ってくださいました。
皮の衣です。人を覆うために、何らかの動物が犠牲となったのです。彼らはその犠牲によって覆われたのです。アベルもカインも、両親の失敗を知っていたでしょう。皮の衣の話も聞いていたと思います。自分たちが、エデンの園から追われた理由を彼らは聞かされていたことでしょう。
アベルがこれらのことをどの程度理解していたのかはわかりません。しかし、彼は、信仰によって「すぐれたいけにえ」を献げたのです。
アベルは、信仰によって、カインよりも「すぐれたいけにえ」を献げました。アベルが「羊」の「血」を流したことは確かでしょう。
主は、信仰によって献げた「アベル」と、その「ささげ物」に目を留められたのです。
それでも、「なぜだ」とカインは叫びます
カインは、なぜ自分の収穫物ではダメなのかと思ったでしょう。正しいささげ物が何であるのかは、カインも知っていたと思うのです。
「良いことをしているなら、受け入れられる」と主は言われました。別訳では「顔を上げられる」です。カインは「良いことをしていない」と分かっていたので顔を伏せたままでした。
カインの「大地の実り」は立派なものだったのではないかと想像します。自信作だったからこそ持ってきたのではないかなと思うのです。
なぜダメなのかとカインは思ったでしょう。なぜ自分が一生懸命に作ったものではダメなのかと。アベルだって自分の羊をささげたのに、なぜ自分の作物には目を留めてくださらないのか。
これが善悪の知識の実を食べた人の姿です。
人は「善悪」を自分で判断するようになりました。何が「善」で、何が「悪」なのかを自分で決めるようになりました。神に従うのではなく、自分で何もかも決めて行うようになったのです。それが、サタンが言うところの「神のようになって善悪を知る者となる」という意味です。
しかし、人には「絶対的基準」が自分のうちにありません。ですから、人が判断する「善悪」は、一方にとっては「善」であり、他方にとっては「悪」となります。そして、「絶対的基準」がないので「さまよう」のです。
神様は、ご自身が「善」であられます。神様のなさることはすべてが「善」です。この方こそが「絶対的基準」であるのです。
人はまるで神になったように善悪を自分で決めるようになりました。自分が良いと思うことを、自分のやり方で行うようになりました。カインは、それを全能なる創造主に押し付けたのです。「自分を認めて欲しい」と訴えたのです。そして、「なぜ受け入れて下さらないのか」と怒るのです。
主のみこころを行うこと
人は行いによっては救われません。
私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われるのです。行いによるのではありません。自分の心のままに「良いと思えること」を行ったとしても受けいれられることはありません。
どれだけ頑張ったとしても、「自分の思う良いこと」では救われません。
ある先生が面白いことを言っていました。
「それは、あなたの『御心(おこころ)』です。『御心(みこころ)』ではありません。」
確かに「自分の『お心』をいくら一生懸命に行っても決して救われることはないでしょう。「自分の『お心』では「神に近づく」ことはできないのです。
主の御名によって「預言」し、「悪霊を追い出し」「奇跡」を行ったのです。とても立派な聖徒に思えます。
しかし、イエス様は「わたしはおまえたちを全く知らない」と言われるのです。理由はただ一つです。それは、「父のみこころを行っていない」からです。
「何をすべきか?」と尋ねた人々に、イエス様は「神が遣わされた者を信じること」つまり「イエス様を信じること」だと答えられました。
「良いこと」を尋ねた青年に「良い方はおひとりです」と言われたことと同じです。「良いこと」ではなく「良い方」を求めることです。
信仰によって神に近づく
アベルは信仰によって「すぐれたいけにえ」を献げました。
信仰がなければ神様は喜ばれません。どれだけ良いものを献げても、どれだけ良いことをしても、信仰がなければ喜ばれません。
カインには信仰がありませんでした。彼が求めていたのは、神様に近づくことではなく、自分が認められることです。彼が誇っていたのは自分の力です。
神様の求めておられるものより、自分が決めたものの方が良いと思ったのです。カインは神に近づく方法を自分で勝手に決めたのです。
救われるべき御名は唯一です。イエス様の御名の他に救いはありません。そして、私たちはイエス様の血によってのみ受け入れられます。
神様に近づく方法は神様が定められます。
アベルは、信仰によって御心にかなう「ささげ物」を献げました。彼には、主に「近づきたい」という思いがあったのではないかと思います。「物」と「事」ではない「主ご自身」を求める心があったように思います。
もしかすると、両親からエデンの園での神様との親しい交わりについて聞いていたのかもしれません。そして、エデンの園に憧れを抱いていたのかもしれません。
エデンの園では、そよ風の吹くころ、主が園を歩き回られる音を聞くのです。背く前のアダムたちは、隠れずに御顔を仰いだのです。エデンの園の話は、きっとアベルの心を躍らせたであろうと思います。
これはもちろん想像の域をでませんが、私はそうであろうと思うのです。なぜなら、私も天の故郷に憧れているからです。そして、天の御国のことを考えると心が躍るからです。そこにおられる方の御顔を拝する日を待ち望んでいるからです。
大胆に恵みの御座へ
アベルは、ささげ物により正しい人だと証されました。主は、アベルとそのささげ物に目を留められました。
私たちが信仰を持って、主イエスの御名により、その血潮を携えて、御前に近づくなら、御父は必ず「目を留めて」くださいます。喜んで受け入れてくださるでしょう。
大切なのは「ささげ物」なのです。
私たちは子羊のようなキリストの尊い血によって贖い出されたのです。御父は、私たちのために「宥めのささげ物」をご自身で用意してくださったのです。
イエス様は、ご自身が「ささげ物」とされることを知っておられました。むしろ、そのために来たと言われるのです。
イエス様は「血」を流すために「からだ」をお持ちになりました。「死ぬ」ことによって悪魔を滅ぼすため、私たちを奴隷の状態から解放するために「からだ」をお持ちになりました。イエス様は、私たちのための「宥めのささげ物」となられました。
私たちは、この方以外の「ささげ物」をもって、御前にでることはできません。この方以上の「宥めのささげ物」は存在しません。
私たちの「良い行い」など「宥めのささげ物」にならないのです。どれだけ「善行」を積んでも、神様への「宥めのささげ物」には決してならないのです。
私たちの「義」は、神様の御前では「不潔な衣」です。人は誰も「行い」によっては救われません。自分の「行い」によって神様の御前に出ることはできません。
アベルは死にました。しかし、信仰によって今も語っています。人は、どのようにして神に近づくべきかということを。神が目を留められるのは、どのような人なのかということを。
信仰によって、アベルは「すぐれたささげ物」を献げました。神は、アベルとそのささげ物に目を留められました。
「大胆に」とは、「確信をもって」とも訳せます。私たちは自分自身の「義・行い」には確信を持てません。けれど、「子羊のようなキリストの尊い血」には信頼を置けます。確信が持てます。
アベルは信仰によって、今もなお語っています。
私たちも信仰によって献げます。イエス様の御名により「子羊のようなキリストの尊い血」によって御前に行きます。
大胆に、確信をもって御座に近づきましょう。