【創世記4:26】
セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。
カインは町を建てました
カインは、主の前から出ていきました。そして、町を建てたのです。
カインには、多くの子孫が与えられ町は発展して行きます。
聖書は、カインの子孫の一人に注目しています。レメクと呼ばれる人物です。
レメクは、カインの町とカインの子孫の代表的人物ということでしょう。「レメク」とは「強いもの」という意味です。彼は、その名の通りの人物でした。
彼が作った歌を見てみましょう。
これは妻たちに歌ったものです。しかしそれは、妻たちだけでなく町中の人に伝えるために歌ったものです。
これは「つるぎの歌」と呼ばれています。
自分の力を誇示するものです。自分に敵対することは許さないことを示すものです。レメクに刃向かう者はこうなるのだという脅しです。
そして、神に対する挑戦です。
「神は、カインのために7倍の復讐を用意したが、レメクは77倍の復讐をするぞ」と言うのです。
「神よりもっと凄い復讐をするのだから、自分は神より上なのだ」と言っているのです。
主の前から出て行ったカインが建てた町は、レメクのような人が支配する町となりました。
カインは「神なき町」を建てたのです。
そこには、慈しみ深い主の御手はありません。そこには主の守りの御手はありません。ゆえに人は「自分で自分を守る」必要があるのです。
傷つけられたら、傷つけ返さねばならないのです。奪われたら、奪い返さねばならないのです。そして、傷つけられないように、奪われないように、守りを固めなければならないのです。
強くなければ踏みつけられてしまうからです。踏みつける側にならねばならないのです。
そしてレメクの歌が生まれたのです。「神なき町」は「つるぎの歌」を生むのです。
カインの建てた町での勝利者はレメクのような人なのです。
レメクの歌は「終末の歌」でもあります
レメクの「つるぎの歌」は、「終末の歌」でもあると私は思います。
神様から離れた人は、自分の狡猾さを誇るようになります。自分がどれだけ不道徳かを人に誇示します。自分の不摂生を誇る人もいます。
そして、それがあまりにも誇らしげなので、聞いていると正しく歩んでる聖徒たちが引け目を感じてしまうほどです。
「こんなことも経験したことがないのか?」「何も知らないのだな」と暗に見下されているように感じてしまいます。張り合わなくてもいいのに、「いや、私もこう見えてもね、なかなかの者だったよ」などと言ってしまうのです。
何が「なかなかの者」ですか。張り合う自分が嫌になりますね。それは、パウロが言うところの「恥ずべき実」ではありませんか。
何も知らなくて結構です。言わせておけばいいのです。張り合う必要などありません。むしろ恥ずかしく思うべきです。
どうか覚えてください。神の国を相続するのは私たちだということを。
世の中の風潮がどうであれ、神のみことばは変わりません。
私たちは、ただ主の御前に歩めばよいのです。そして、神を知り、神に知られていることを誇ればよいのです。
セツはエノシュを得ました
その子は、セツと名づけられました。
「セツ」とは、「置く」「据える」「基礎」「柱」などの意味です。その発音が原語の「授けられる」と似ているようです。
エバの思いが込められているのを感じます。アベルの命は儚く散ってしまったけれど、この子はしっかりと立って、ずっと生きていて欲しいと思ったのかもしれません。
「アベルの代わりの別の子孫」とエバは言います。「蛇の頭」を打ち砕く「約束の子孫」を待ち望む心が見えるようです。確かにセツのずっと先、はるか未来にその望みは実現します。
さて、セツが町を建てたと聖書は記していません。けれど、何らかのコミュニティは存在していたのでしょう。彼らこそ「主の名を呼び始めた人々」です。
主の名を呼ぶことを始めたと書かれています。別訳では「主に祈ることを」となっています。
カインは「町を建て」、セツは「祈りを始めた」のです。
セツは自分の子に「エノシュ」と名づけました。
わざわざ記されているので、このことは「主の名を呼ぶことを始めた」一つの理由であるのでしょう。
「エノシュ」とは「壊れやすい」「弱い」「もろい」という意味です。
セツはその子をエノシュと名付けた。これは「人」という意味で、人の持つ「弱さ、もろさ」を表している。つまり人は、神なしには全く弱くてもろい、死すべき存在だという認識がここにある。
新聖書講解シリーズ 創世記 坂野慧吉著 P108
「エノシュ」とは「人」を表す固有名詞として使われることもあるようです。
しかし、セツは、なぜ自分の子に「壊れやすい」「弱い」「もろい」などの意味をもつ名前をつけたのでしょう。聖書はその答えを記していないので本当の理由は分かりません。
アベルの話を両親から聞いて、「人」の儚さを知ったのかもしれません。「人」とは「弱い」もので「壊れやすい」ことを痛感するような出来事があったのかもしれません。
ただ確かな事は、セツが「エノシュ」を得た後、ちょうどその頃、「人々が主の名を呼び始めた」ということです。
弱いと認めて生きること
「弱い」と呼ばれることは嫌ですか?
エノシュはずっと「弱い」「もろい」と呼ばれながら生きていくのです。そして、セツもまた、ずっと「弱さ」「もろさ」を抱きかかえて育てていくのです。
「ヤベツの祈り」で有名なヤベツもそうです。自分の名前に「痛み」を覚えながら生きていました。
ヤベツとは、「痛み」という意味です。もう少し詳しく言えば「痛みをもたらすもの」です。
良い響きの名前ではありませんね。エノシュと同じぐらい好まれない呼び名でしょう。彼は、「痛み」を抱えて生きなければなりませんでした。
今日は、ヤベツの痛みについて考えることはしません。ただ、彼が兄弟たちの中で最も重んじられた理由だけをみましょう。その理由はただ一つです。
ヤベツの祈りは有名ですから、この祈りについてはご存じでしょう。「痛みを覚えることのないようにしてください」との祈りは、名前の意味を知ってみると悲痛な思いを感じます。
しかし、今回、注目するところはそこではありません。
ヤベツは「イスラエルの神に呼び求めて言った」のです。
ヤベツが兄弟たちの中で最も重んじられた理由は、彼が「強い」からではありませんでした。「優秀」だからでもありません。「痛み」を抱えながら「イスラエルの神を呼び求めた」からです。
人は弱いのです。私は弱いのです。
主は人を「地のちり」から造られたのですからそれは当然のことです。
人は弱いことをセツは知ったのでしょう。「弱さ」を抱えて歩んでいくのだと決めたのでしょう。
ゆえに「主の御名を呼ぶ」ことを始めたのです。
弱いときこそ強いのです
主が人を「地のちり」から造られたのには理由があると信じます。
最も「もろく」「はかない」ものから人は形造られました。それは、最も「強く」「不動」の方により頼んで生きるためです。
私たちは、「地のちり」ですが「神である主」によって価値あるものとされるのです。土の器でなければばらないのです。
「測り知れない力」とは別訳では「並外れた」です。
この「測り知れない」「並外れた」力は、私たちからはでません。それは頑張っても決してでません。むしろ、私たちの「自我の力」は「並外れた」神の御力の邪魔になるだけです。
「私が弱いときこそ、私は強い」とパウロは言います。
「弱さ」というのは、厭うべきものではなく、むしろ「誇るべきもの」です。
なぜなら主がこう言われるからです。
「わたしの力は弱さの内に完全に現れるからである」と。
誇るべきは「弱さ」です
カインは、主の前から出て行って町を建てました。彼は自分を「自分自身で守る為に」町を建てたのです。
レメクは、カインの子孫として、その思いを受け継ぎました。「力」を求めて「強く」なりました。自分の身を守るどころか「77倍の復讐」をする力を得ました。
「力」「強さ」を誇る人は、神に反抗しているのです。敬虔に見えたとしても内面は違います。
神に反抗した世界は、今どんなに素晴らしく見えても必ず堕落して行きます。この先、ノアの時代、地は堕落し暴虐に満ちるのです。
セツは、町を建てませんでした。
自分で自分を守る必要がありませんでした。「弱さ」を抱えセツは、主を呼び求めました。主の名を呼んだのです。
私たちは「力」を求める必要はありません。私たちの「力」は主ご自身だからです。私たちは「主」を求めるのです。
私たちは「強く」ありません。しかし、それでいいのです。「強い」のは、私の「神」です。
私たちは、主ご自身を求めます。
祈りとは「願っていることを求めること」です。それは間違いではありません。
しかし、本当の祈りとは、その願ってる「事」と「物」の先におられる「方」を求めることです。
私は自分が弱いことを認めます。
私は弱さを抱えて生きています。
そして、その弱さを誇ります。
なぜなら「主の力は弱さのうちに完全に現れるから」です。
セツの子孫は、この後、ノアへと続き、そして、救い主イエス様へとつながっていきます。
終わりの時代を生きるために必要なことは、町を建てる強い力ではありません。
カインの町は滅びました。
終わりの時代に必要なのは「主の名を呼び求める人々」です。
主ご自身を求める祈りです。
力から力へと進むのは「心にシオンへの大路のある人」です。それは、「主の名を呼び求める」ことを知っている人のことです。まことの「道」であるイエス様の御名によって祈ることのできる人のことです。
「弱さ」は「誇り」となりました。それは、「シオンへの大路」への道しるべです。
私たちは「弱い」ことによって「主の完全な御力を現す」ものとされるのです。
土の器であることを「誇り」ましょう。
うちには「宝」があるのですから。
どうか私たちのうちから「測り知れない」「並外れた」力が輝き出ますように。
そして、その力が「神」のものであることが明らかにされますように。
祝福を祈ります。