エペソ6:14c
胸には正義の胸当てを着け、
神が義と認めてくださったのです
ローマ兵の胸当ては、兵士の心臓を守る大切な武具です。
神の武具においても、胸当ては「心」を守るために装着します。
私たちの「心」を守る胸当てとは「正義」であるとパウロは言います。
私たちは、敵に心を射抜かれないために「正義の胸当て」をつけなければなりません。
覚えてください。
敵は、私たちの過去を責め立ててきます。
それは「1分前」のことかもしれません。または「10年前」のことかもしれません。
「おまえは、今さっき、嘘をついたじゃないか」と敵は言います。
「おまえは、昔、あんなことをしたじゃないか。今さら神のために働けるのものか」などとも言います。
敵の声が「心」に入ると、私たちは罪悪感で押しつぶされそうになります。そうして、心はシナシナになって、結局、神の働きなんて「自分には無理だ」と諦めてしまうのです。
「いのちの泉」が「心」から湧くことを、敵たちは知っているのです。
そして、恐らく、あなたよりも熱心に「あなたの心」を見張っています。あなたが元気になって「イキイキ」と過ごすことができないように、熱心に「心」を攻撃してくるのです。
「神の義」を胸当てとしてつけましょう。
イエス様の死によって、私の罪は「過去の罪」も「現在の罪」も「未来の罪」も贖われました。
主イエスが「死に渡された」ので、私たちの罪は取り去れたのです。
そして、罪を完全に葬り去られたイエス様は「よみがえられ」ました。私たちは、イエス様の復活により「義と認められた」のです。
誰にも「文句」のつけようがないと聖書は主張しているのです。
誰も私を「訴える」ことはできません。誰が「主イエスの死と復活」を否定できるでしょう。
あなた自身も「あなた」を責めることはできません。
悪しき者は「責める正当な理由がある」と主張するでしょうが、それは「偽り」です。
「神が義と認めてくださった」のです。だれがそれに反対できますか。
ですから、もし、あなたの心が「罪悪感」で痛くなったのなら、立ち上がって宣言するのです。
「誰が私を訴えるのか。神が私を義と認めてくださっている。私は、イエス様のうちにある者だ。決して罪に定められることはない。イエス・キリストの御名によって命じる。罪悪感をもたらす者よ、立ち去れ」
私たちは「自分の義」では戦うことはできません。
「自分の義」など「武具」にはなり得ません。それはただの「不潔な着物」にすぎません。
必要なのは「神が義と認めてくださった」という「事実」だけです。
主なる神は「私の味方」です。
「神の義」を胸当てとしましょう。自信をもって、恐れずに歩みましょう。
「神が義と認めてくださっている」という告白に歩むことこそ「正義の胸当て」を身に着けることです。
私はキリスト・イエスのうちにある者です
神が義と認めてくださいました
神が私の味方です